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読書「やってみなはれ みておくんなはれ」山口瞳/開高健_昭和の高度経済成長の波に乗ったトリス全盛期の名コピーライター二人によるサントリーの物語

f0090954_13364173.jpg昨日の「この日のために」の読書感想ブログでも書きましたが、1944年に「国民酒場」を創設させた当時大蔵省の主税局長だった池田隼人から壽屋の創業者鳥井信治郎が助言を受けていました。

「サントリ-もいいが、もう少し大衆的なウィスキ-を出したらどうか」と。

サントリー・ウィスキーとしては、1929年にサントリー白札、1937年にサントリー角瓶がすでに誕生していました。戦時中は日本海軍に、戦後はGHQにこれらのウィスキーは売れていました。しかし、1907年に登場した「赤玉ポートワイン」のような全国的に国民に親しまれた飲み物ではありませんでした。

そうした大衆向きにとの期待に応えて壽屋がトリスウィスキ-を発売したのが戦後の1946年です。トリスウィスキ-を発売すると同時に、トリスバ-も開きました(全国展開の大盛況は1960年に入ってからですが、その火付け役が開高健、柳原良平、山口瞳でした)。

当初は原酒を5%入れていた3級ウイスキー(後の2級ウイスキー)として登場しましたが、徐々に原酒の配合割合が上げられ、やがて10%に引き上げられて2級ウイスキー(後の1級ウイスキー)として発売されていきます。

比較的安価だったため大衆の人気を得、戦後の洋酒ブームの火付け役となりました。

そして トリスウイスキーの広告が掲載されるようになったのが1949年のことです。開高健が寿屋の宣伝部で働き始める5年前、山口瞳が宣伝部に加わる9年前の事でした。

開高が壽屋の宣伝部に就職したのは神武景気の始まった頃でした。

神武景気とは、日本の高度経済成長のはじまりの1954年(昭和29年)12月から1957年(昭和32年)6月までに発生した好景気の通称です。

1950年(昭和25年)〜1953年(昭和28年)における朝鮮戦争中、朝鮮半島へと出兵したアメリカ軍への補給物資の支援、破損した戦車や戦闘機の修理などを日本が大々的に請け負ったこと(朝鮮特需)によって、日本経済が大幅に拡大されたために発生しました。

1956年(昭和31年)7月に発表された経済白書で使われた「もはや「戦後」ではない」という言葉に象徴される景気拡大時期となりました。

好景気の影響により、耐久消費財ブームが発生、三種の神器(冷蔵庫・洗濯機・白黒テレビ)が出現しました。

開高健は、大阪市立大に在学中、谷沢永一主宰の同人誌『えんぴつ』に参加していました。1952年1月、同人仲間だった詩人牧羊子(壽屋勤務)と結婚します。

1954年2月22日、すでに壽屋社員であった羊子が育児のため退社するのに伴い、後任者として壽屋宣伝部に中途採用され、PR誌『洋酒天国』の編集を手がけました。

会社の事業も絶好調で、この朝鮮戦争特需で特に沖縄の米兵にウィスキーが飛ぶように売れただけでなく、トリスウィスキーも大衆に浸透していった時代でした。

神武景気に続いて、1958年には岩戸景気と呼ばれる好景気が到来します。

岩戸景気とは、日本の経済史上で1958年(昭和33年)7月~1961年(昭和36年)12月まで神武の31ヶ月を超える42か月間続いた高度経済成長時代の好景気の通称です。

神武景気、いざなぎ景気(1966~70、所得水準の向上によって、エアコン(クーラー)の購入も増加し、車 (car)、エアコン (cooler)、カラーテレビ (color TV) の3Cが、新・三種の神器と呼ばれ、日本を世界第2位の経済大国に押し上げた戦後高度成長時代の好景気の一つで、景気拡大期間が57ヶ月に及ぶ)と並ぶ、戦後高度成長時代の好景気の3つの大きな波の一つです。

この景気は中産層の増大と消費ブームの到来に特徴づけられます。好景気によって若年サラリーマンや労働者の収入が急激に増加し、国民の間に「中流意識」が拡がり、生産と消費に介在する流通システムにも大きな変革をもたらしました。小売市場に、豊富な品ぞろえと大幅な値引き販売で顧客を集めるスーパーマーケット、スーパーストアなどの大型店舗が出現します。従来の流通経路に革命的な変化をもたらしたという意味で流通革命と呼ばれました。

この岩戸景気が始まった1958年に開高健は『裸の王様』で芥川賞を受賞します。

壽屋の宣伝部に在籍していたデザイン家の柳原良平が開高健とアイディアを出し合い、トリスのキャラクターであるアンクルトリスを生み出したのも1958年です。

そして多忙となった開高が壽屋(現・サントリー)のPR誌「洋酒天国」の編集員を募集し、それに応募したのが山口瞳でした。 山口は1930年生まれの開高健氏より4年年上で、この募集の年齢制限30歳以下という条件にぎりぎりでした。

彼は、河出書房の「知性」という雑誌の編集部に勤務していましたが、1957年3月に同社が倒産し、失職中でした。

その1958年に、山口瞳が、開高健の推薦で宣伝部に加わります。その後、PR雑誌「洋酒天国」の編集や、コピーライターとして活躍します。

1961年、『洋酒天国』がピークを迎えようとしていたときに、開高健はそれまでの活動の到達点とも言えるような広告コピーを書きました。「人間らしくやりたいナ/トリスを飲んで/人間らしくやりたいナ/人間なんだからナ」です。大きな評判を呼びました。

そしてこの年の9月に寿屋は新たにハワイのキャンペーンを展開することになっていましたが、この当時、開高は作家としての仕事などで多忙を極めており、会社に出ることも少なくなっていたのです。

そのため、このキャンペーンのコピーは山口瞳が担当することになりました。

山口が指示を受けたとき、すでに柳原によって絵とデザインは完成していたそうです。

山口は、なんとかして読者の心に残る広告を作ろうと、机の下にもぐりこんだり、暗室で寝ころがったりしながら考え、コピーを作り上げました。

そのキャッチコピーの表記は「トリスを/飲んで/Hawaiiへ/行こう!」でした。ハワイ旅行が当たる懸賞付きのコピーでした。

本コピーは評判となり、1961年の流行語にもなりました。

そのため、それは山口瞳の広告コピーの出世作になりましたが、1961年9月には小説『江分利満氏の優雅な生活』が雑誌に発表されることになっていたため、広告が失敗したら会社を辞めるしかないと考えていたそうです。この成功は山口を安心させましたし、『江分利満氏の優雅な生活』は1963年に直木賞受賞作となりました。(奇しくも、その1963年に寿屋は「サントリー」への社名変更しています。)

岩戸景気の最終年(すぐに新幹線開通や高速道路設置などの公共投資に代表されるオリンピック景気~1964年に続きますが)となる1961年の日本は高度経済成長期にあり、レジャーブームが起こった年でもありました。(ちなみに映画「三丁目の夕日」の懐かしき良き昭和の時代背景は、神武景気からオリンピック景気までの1954年から1964年の10年間です。)

この頃レジャーという言葉が流行語になり、日本航空の国内線の年間乗客数は初めて100万人を超えました。

一方、海外旅行については、1950年代から芸能人らによってハワイが紹介されることがあったものの、当時はまだ海外旅行の自由化もなされておらず、費用も高額で、庶民にとっては夢のような話でした。(1948年頃、岡晴夫が「憧れのハワイ航路」を歌っていました。1950年には岡晴夫主演で映画化されています。子役で美空ひばりも出演していました。)

その時代にあって山口瞳のコピーは、人々にハワイ旅行という夢を提示することで、当時の日本人に大きなインパクトを与えたエポックメイキングなコピー作品となったのです。

なお、同じ1961年には映画「ブルーハワイ」(主演エルビス・プレスリー)が日本公開され、1963年には加山雄三主演の「ハワイの若大将」、森繁久彌主演の「社長外遊記」「続・社長外遊記」といった、ハワイを舞台にした映画が公開されています。

さらに1963年には10問連続で正解するとハワイへ行けるテレビ番組「アップダウンクイズ」の放送が始まるなど、海外旅行自由化を前にハワイブームが巻き起こることになりました。

広告は時代を映す鏡といわれますが、山口瞳の「トリスを/飲んで/Hawaiiへ/行こう!」はむしろ時代を先取りししたものであったのかもしれません。

余談ながら、ハワイにはiが2つですね。

さらに余談ながら、ウィスキーはWhiskey(アイリッシュ系)とWhisky(スコッチ系)でスペルが違います。

日本では”まっさん”こと竹鶴政孝が学んだスコッチをモデルにしているので Whiskyと綴ることが多いですが、アイリッシュ移民の多い米国ではWhiskeyと綴られます。そういう流れで、米国ケンタッキーが産地の中心であるアメリカン・ウイスキーとして有名なバーボンも bourbon whiskeyとアイリッシュ系のスペルになっています。

サントリー創業者・鳥井信治郎の「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」の言葉を冠したこの「やってみなはれ みておくんなはれ」は、大らかな佐治敬三社長の下、寿屋(サントリー)東京支店@茅場町にある宣伝部の風変わりな仕事ぶりが覗ける随筆でした。

前半の「青雲の志について ~小説・鳥井信治郎~」を山口瞳、後半の「やってみなはれ ~サントリーの70年・戦後編」を開高健が書いています。

by zoompac | 2019-01-18 13:14 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「この日のために(上)」幸田真音_1964年のオリンピック招致に向けた民間人・田畑政治と政治家・池田勇人の物語

f0090954_13370772.jpgNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、金栗四三と田畑政治のW主演ですが、この「この日のために」では、池田勇人と田畑政治がW主人公です。

副題には、「池田勇人、東京五輪への軌跡」とあります。

広島の造り酒屋の7人兄弟の末っ子として1899年に生まれた池田勇人は、京大を卒業後、1925年に大蔵省へ入省します。

その後、キャリアとして5年間、函館税務署長、宇都宮税務署長と地方を巡りますが、1929年に全身から膿が吹きだす落葉状天疱瘡という難病を発症し、大蔵省を休職し、さらに休職期限が切れたため退職を余儀なくされます。

本来、黴菌やウィルスと戦うべき抗体が自分自身の皮膚を外敵として認知して攻撃してしまう病気でした。ステロイドが普及する前の時代で、死に至る可能性も低くはありませんでした。

生死を彷徨う闘病の中で愛妻を亡くし絶望の底に叩き落とされますが、遠縁で医師の娘でもあった満枝という娘の甲斐甲斐しい看護もあって奇跡的に助かります。しかし結局治癒するまでに5年間かかってしまいました。

民間の企業に就職も決まり、あくまでも挨拶のため、古巣の大蔵省に電話をしたところ、復職を勧められ、34歳にして大阪玉造の税務署長として再出発が叶ったのです。このとき池田は満枝を後添えとし、公私共に再出発となりました。

池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」とうそぶいて凄まじい取り立てぶりだったようです。やがてその実力が認められ、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻ります。

1944年には、酒豪の池田らしく、「国民酒場」なるものの創設です。食料は配給制で、当然アルコール類も厳しい統制下におかれていました。そのときの清酒やビールの配給の在り方についての担当は、下戸の大平正芳でした。池田が助言し、簡易配給所というか公営酒場を都内に百ヶ所設置することになりました。

この「国民酒場」は戦後も続き、ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であるトリスウィスキーの誕生にあたって池田がサントリー創始者の鳥井信次郎に助言をしたというエピソードもあります。

もともと池田は広島の「豊田鶴」という酒屋の末息子で、同郷の「竹鶴」酒造の三男竹鶴政孝(NHKドラマ「まっさん」の主人公)が同郷の中学校の1年先輩でもありました。

紆余曲折はありましたが、終戦の1945年には主税局長になり出世の遅れを取り戻しました。

そんな中で、吉田茂に声を掛けられ、1948年に48歳で大蔵省を退官し、翌年、広島から立候補し、初にしてトップ当選で衆議院議員となります。

そして政治家1年生として異例のことですが、大蔵省官僚としての実績を引っ提げて、GHQと戦後日本の税制並びに財政問題を交渉するため、大蔵大臣を拝命することになるのです。

マッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもないため、官僚出身で数字にも事務仕事にも卓抜した池田に白羽の矢が立ったのです。

池田はドッジと共に均衡財政を目指して、各種補助金を大幅にカットし、税収の取立てを厳しくしていきます。

NHKドラマ「まんぷく」の萬平さんのモデルの安藤百福が脱税の容疑で巣鴨に収監された頃のお話です。

戦後の復員兵の受け皿となった国鉄の人員整理にも池田は大鉈を揮いました。元々、鉄道省官僚上がりで吉田学校の同期の佐藤栄作とはずいぶんもめたようです。このとき、国鉄関連の三大ミステリー事件と呼ばれる、下山、三鷹、松山事件が、連合国軍占領下の1949年(昭和24年)の夏に相次いで起きました。

一方、池田が生まれる1年と2日前に静岡県は遠州浜松で生を受けたのが田畑政治(まさじ)です。

浜松は古来水泳が盛んな場所でしたが、田畑は古式水泳や遠泳という伝統から、海外で編み出されたクロールという泳ぎ方に興味を抱き、やがて本格的な国際競泳の幕開けに身を投じていくことになります。

彼は、東京帝国大学を卒業後、1924年に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社。その後は政治経済部長などを務め、1949年に常務に就任します。

その傍ら、田畑は水泳指導者としても活動し、1932年のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めました。

彼は、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として有名です。

新聞社の政治経済部の記者として政治家や有力者とのコネを作り、その筋から、いろいろ五輪招致に剛腕を発揮していきます。

実は、東京オリンピックは、日本の首都の東京での1940年開催が、1936年(昭和11年)の国際オリンピック委員会(IOC)で決定したことがありました。

それ以降には開催の準備が進められていたものの、支那事変の勃発や軍部の反対などから日本政府は1938年(昭和13年)7月にその実施の中止を決定し、自主返上していたのです。

このときの五輪招致に活躍したのが嘉納治五郎です。

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、日本が初めて夏季オリンピックに参加した1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックから、幻となった東京オリンピック(1940年の予定が、戦争で返上)開催を決めた1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック(1936年)を挟んで、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催までの52年間の物語となっています。

日本人初のオリンピック選手となった「日本のマラソンの父」金栗四三と、東京オリンピック招致に尽力した田畑政治(日本水泳連盟元会長)の2人の主人公をリレーする形式で描いているようですが、ことオリンピック招致ということでは、嘉納治五郎から田畑政治へのリレーといっていいかもしれません。

そして、ネタバレ御免ですが、「この日のために(下)」で、田畑政治の旗振りの民間主導から官制主導に変わり、池田勇人が「所得倍増計画」にこの千歳一隅のオリンピックをフル活用する事態になっていきます。

by zoompac | 2019-01-17 09:53 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「この日のために(上)」幸田真音_1964年のオリンピック招致に向けた民間人・田畑政治と政治家・池田勇人の物語

f0090954_13370772.jpgNHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、金栗四三と田畑政治のW主演ですが、この「この日のために」では、池田勇人と田畑政治がW主人公です。

副題には、「池田勇人、東京五輪への軌跡」とあります。

広島の造り酒屋の7人兄弟の末っ子として1899年に生まれた池田勇人は、京大を卒業後、1925年に大蔵省へ入省します。

その後、キャリアとして5年間、函館税務署長、宇都宮税務署長と地方を巡りますが、1929年に全身から膿が吹きだす落葉状天疱瘡という難病を発症し、大蔵省を休職し、さらに休職期限が切れたため退職を余儀なくされます。

本来、黴菌やウィルスと戦うべき抗体が自分自身の皮膚を外敵として認知して攻撃してしまう病気でした。ステロイドが普及する前の時代で、死に至る可能性も低くはありませんでした。

生死を彷徨う闘病の中で愛妻を亡くし絶望の底に叩き落とされますが、遠縁で医師の娘でもあった満枝という娘の甲斐甲斐しい看護もあって奇跡的に助かります。しかし結局治癒するまでに5年間かかってしまいました。

民間の企業に就職も決まり、あくまでも挨拶のため、古巣の大蔵省に電話をしたところ、復職を勧められ、34歳にして大阪玉造の税務署長として再出発が叶ったのです。このとき池田は満枝を後添えとし、公私共に再出発となりました。

池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」とうそぶいて凄まじい取り立てぶりだったようです。やがてその実力が認められ、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻ります。

1944年には、酒豪の池田らしく、「国民酒場」なるものの創設です。食料は配給制で、当然アルコール類も厳しい統制下におかれていました。そのときの清酒やビールの配給の在り方についての担当は、下戸の大平正芳でした。池田が助言し、簡易配給所というか公営酒場を都内に百ヶ所設置することになりました。

この「国民酒場」は戦後も続き、ウイスキーメーカーとしてのサントリーの原点となる洋酒であるトリスウィスキーの誕生にあたって池田がサントリー創始者の鳥井信次郎に助言をしたというエピソードもあります。

もともと池田は広島の「豊田鶴」という酒屋の末息子で、同郷の「竹鶴」酒造の三男竹鶴政孝(NHKドラマ「まっさん」の主人公)が同郷の中学校の1年先輩でもありました。

紆余曲折はありましたが、終戦の1945年には主税局長になり出世の遅れを取り戻しました。

そんな中で、吉田茂に声を掛けられ、1948年に48歳で大蔵省を退官し、翌年、広島から立候補し、初にしてトップ当選で衆議院議員となります。

そして政治家1年生として異例のことですが、大蔵省官僚としての実績を引っ提げて、GHQと戦後日本の税制並びに財政問題を交渉するため、大蔵大臣を拝命することになるのです。

マッカーサーの財政顧問のジョゼフ・ドッジ (デトロイト銀行頭取)が公使の資格で来日し、日本のインフレ収束について強力な政策が要求されると予想され、それまでのような蔵相ではとても総司令部に太刀打ちできそうもないため、官僚出身で数字にも事務仕事にも卓抜した池田に白羽の矢が立ったのです。

池田はドッジと共に均衡財政を目指して、各種補助金を大幅にカットし、税収の取立てを厳しくしていきます。

NHKドラマ「まんぷく」の萬平さんのモデルの安藤百福が脱税の容疑で巣鴨に収監された頃のお話です。

戦後の復員兵の受け皿となった国鉄の人員整理にも池田は大鉈を揮いました。元々、鉄道省官僚上がりで吉田学校の同期の佐藤栄作とはずいぶんもめたようです。このとき、国鉄関連の三大ミステリー事件と呼ばれる、下山、三鷹、松山事件が、連合国軍占領下の1949年(昭和24年)の夏に相次いで起きました。

一方、池田が生まれる1年と2日前に静岡県は遠州浜松で生を受けたのが田畑政治(まさじ)です。

浜松は古来水泳が盛んな場所でしたが、田畑は古式水泳や遠泳という伝統から、海外で編み出されたクロールという泳ぎ方に興味を抱き、やがて本格的な国際競泳の幕開けに身を投じていくことになります。

彼は、東京帝国大学を卒業後、1924年に朝日新聞社(東京朝日新聞)に入社。その後は政治経済部長などを務め、1949年に常務に就任します。

その傍ら、田畑は水泳指導者としても活動し、1932年のロサンゼルスオリンピックなどの大きな大会で日本代表の監督を務めました。

彼は、1964年東京オリンピックの招致活動におけるキーマンの一人として有名です。

新聞社の政治経済部の記者として政治家や有力者とのコネを作り、その筋から、いろいろ五輪招致に剛腕を発揮していきます。

実は、東京オリンピックは、日本の首都の東京での1940年開催が、1936年(昭和11年)の国際オリンピック委員会(IOC)で決定したことがありました。

それ以降には開催の準備が進められていたものの、支那事変の勃発や軍部の反対などから日本政府は1938年(昭和13年)7月にその実施の中止を決定し、自主返上していたのです。

このときの五輪招致に活躍したのが嘉納治五郎です。

NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」は、日本が初めて夏季オリンピックに参加した1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックから、幻となった東京オリンピック(1940年の予定が、戦争で返上)開催を決めた1936年(昭和11年)のベルリンオリンピック(1936年)を挟んで、1964年(昭和39年)の東京オリンピック開催までの52年間の物語となっています。

日本人初のオリンピック選手となった「日本のマラソンの父」金栗四三と、東京オリンピック招致に尽力した田畑政治(日本水泳連盟元会長)の2人の主人公をリレーする形式で描いているようですが、ことオリンピック招致ということでは、嘉納治五郎から田畑政治へのリレーといっていいかもしれません。

そして、ネタバレ御免ですが、「この日のために(下)」で、田畑政治の旗振りの民間主導から官制主導に変わり、池田勇人が「所得倍増計画」にこの千歳一隅のオリンピックをフル活用する事態になっていきます。

by zoompac | 2019-01-17 09:49 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「チキンラーメンの女房 実録安藤仁子」_NHK朝ドラの松阪慶子の演じる母・鈴のイメージがかなり違っていました!

f0090954_08392858.jpgNHK朝ドラの「まんぷく」がコンスタントに視聴率20%超えで絶好調ですね。

空気を読まず否定的な発言が多い松坂慶子が演じる福子の母・鈴ですが、当初は面倒くさい人だなと思って観ていました。

しかし、観ているうちにだんだんそのキャラがうざったいけど可愛い姑というイメージに変わってきました。

「私は武士の娘です!」と相手を圧倒しようとしますが、何を言おうと萬平さんには馬耳東風ですね。頬をふくらまして拗ねたり家出をしたりで本当に困ったチャンの義母ぶりが笑えます。

ウザかわいい姑として主役並みのキャラとなっています。

しかし、「チキンラーメンの女房 実録安藤仁子(まさこ)」を読むと、鈴のモデルとなった仁子の母・須磨の実家は代々鳥取藩主池田家に仕えた藩士で「私は武士の娘です」というのは実際に須磨の口癖だったようです。

百福と結婚して多事多難な苦労の絶えない娘・仁子を精神的に支える須磨の教えは、「クジラのように物事をすべて呑み込んでしまいなさい」という言葉でした。

いちいち否定的な意見で水を差すドラマのキャラとはえらい違いで母・須磨はクジラのようにすべてを受け入れる肝の据わった人でした。

百福の事業の浮沈に右往左往する娘・仁子を助けて、家事・育児を一手に引き受けてくれたのも母・須磨でした。

一方、仁子の父・重信の父方は安積艮斎(あさか ごんさい)の子孫になります。安積艮斎は、福島県郡山市の出身で、幕末の朱子学者。江戸で私塾を開き、岩崎弥太郎、小栗忠順、栗本鋤雲、清河八郎らが学んだ他、吉田松陰にも影響を与えたとされています。

父・重信の母方の祖先には旧二本松藩士(福島県)の朝河貫一がいます。国際的に通用する歴史学者で、日本人初のイェール大学教授です。「武士の娘です」と言っていた母より、むしろ父方のほうが偉人の直系の血筋だったのです。

「ならぬことはならぬ」という会津藩に伝わる教えは2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で主人公新島八重を演じた綾瀬はるかがたびたび口にして有名になった言葉ですが、父方が福島県出身者だったことからチキンラーメンの女房の安藤仁子の口ぐせの1つでもあったのです。

仁子さんの夫であるインスタントラーメン「チキンラーメン」やカップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる安藤百福氏は日清食品(株)の創業者です。

1910年、明治43年生まれで、日本統治下の台湾出身者でした。本名は呉百福です。

ドラマでも紹介されましたが、資材横流しのねつ造で憲兵から手ひどい拷問を受けた背景には国籍問題もあったと思われます。

安藤が日本国籍を取得したのが1966年でしたので日清食品を創業した後です。

安藤百福が大阪府泉大津市にて製塩業を営む「中交総社」創業したのが1948年です。

その傍ら、専門家を集めて国民栄養化学研究所を設立し、牛や豚の骨からたんぱく質エキスを抽出することに成功、パンに塗るペースト状の栄養商品「ビセイクル」として病院にも供給されました。TVドラマの「ダネイホン」のモデルのようですが、ビセイクルはダネイホンのように全国的事業として拡大はしておらず東京進出もしていなかったようです。

脱税容疑で巣鴨に拘束されたのは製塩事業の方でした。

GHQ統治下で均衡財政を目指して大活躍をしていたのが池田勇人元首相です。当時は大蔵省の次官でかなり強引な追徴課税で出世街道まっしぐらでした。サントリーの創業者の鳥居新次郎とも酒税の件で生涯の友となりました。

安藤百福の逮捕の裏に直接池田勇人は登場していませんが、何らかの形で関与していたかもしれないと思うと楽しくなります。

安藤は自ら働きながら立命館大学の夜学を卒業したことから、働く若者に勉学を奨励し奨学金を出していましたが、それが脱税対象とされたのです。TVでも紹介されていましたが「見せしめ」逮捕の可能性が高かったと言われています。

その教育熱心さから安藤は1947年に名古屋で開校した中華交通学院のオーナー・理事長を務めています。1951年に閉校して建物の大部分は現在の名城大学となっています。2008年の全国大学女子駅伝の優勝校です。

立命館大学は、安藤百福の事業成功に対して卒業後60年の1996年に名誉経営博士号を授与しています。

富士山女子駅伝五連覇中の立命館大と女子駅伝黄金時代を迎えた名城大に安藤百福が関わっている偶然も面白いと思いました。

インスタントラーメン「チキンラーメン」が発売(35円)されたのは1958年8月です。

時代は高度経済成長に入ったところでした。池田勇人首相の打ち出した「所得倍増計画」の波に乗ってチキンラーメンも爆発的に売れました。

事業の成功を確信した百福は「日々清らかに豊かな味を作る」思いをこめて1958年12月に「日清食品株式会社」を創設しました。製塩事業を始めて10年後のことです。

安藤百福の偉いところは、インスタントラーメンの特許を独占しなかったところです。製法特許の技術を守ることに汲々するより、オープンにすることによってインスタントラーメンの市場のすそ野を大きくすることに成功しました。

カップラーメンが米国向けの輸出品として開発され、日本での売れ行きはぱっとしませんでした。あさま山荘事件の機動隊が暖を取るためカップラーメンを食べているところが放映されてその需要に火がついたというエピソードが非常に面白かったです。

朝ドラでは、チキンラーメンの開発にいたるところまでまだいたっていません。これからの展開が楽しみです。

2003年の朝ドラ「てるてる坊主の照子さん」で描かれた石田家の四姉妹と安藤百福のチキンラーメン開発の接点が描かれるのかどうか興味があります。

ドラマでは上野樹里演じる三女の秋子が中村梅雀演じる安藤百福の手伝いをするシーンがありましたが、それは石田家と安藤家が近所だったからということでドラマに挿入されたフィクションでした。

安藤夫妻は池田駅前堺町商店街にあるいしだあゆみの実家のお店に寄ってよくクリームソーダを飲んでいたそうです。

ドラマでは源の名前になっている百福の長男の宏基は2代目社長として「どん兵衛きつね」や「焼きそばU.F.O.」を発売してヒットを飛ばしました。

安藤宏基は池田小学校でいしだあゆみ(本名:石田良子)と同級生だったそうです。一緒にアイススケートに行ったこともあるそうで、いしだあゆみはお姉さんでフィギュアスケートの元五輪選手の石田治子の妹だけにかなり上手だったそうで教えてもらったことを懐かしそうに回想していました。

「てるてる坊主の照子さん」の著者のなかにし礼さんと結婚したのは四女の石田ゆりさんでした。

この石田4姉妹とのエピソードがチキンラーメン開発時代@大阪府池田市ドラマ「まんぷく」のドラマにどういうふうに挿入されるのか楽しみです。

巣鴨から保釈された萬平さんですが、チキンラーメン開発に至る前に不案内な金融業に首を突っ込みます。信用組合を創設するのですが、ここで一難去ってまた一難を経験します。

うざかわいい萬平さんの義母がどんな嘆き方をするのか今から楽しみです。

by zoompac | 2018-12-30 08:41 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「メリー・スチュアート」_23歳から25歳の情愛の嵐のような2年間以外は平坦だったメリー(メアリー)の45年の生涯

f0090954_08552959.jpg2016年から2018年にかけてシーズン4までNHKで放映された海外ドラマ「クイーン・メアリー 愛と欲望の王宮」をずっと観ていました。

その間、シュテファン・ツバイクの「メリー・スチュアート」を読みたいと思っていましたが、やっと読み終わりました。

ドラマではメアリーの6歳から17歳の12年(1548年~1559年)に渡るフランスにおける青春を長々と描き出していましたが、ツバイクの伝記では彼女のフランスでの青春や最初の結婚については簡潔な描写にとどめ、むしろ彼女のスコットランドへの帰国以降(1561年~)に焦点を当てていました。

23歳となった1565年に彼女はスコットランドの地で第二の結婚をしスコットランドに加えてやがてバージンクイーンであるエリザベスからイングランド王国も継承することになるジェームズを生みます。ジェームスはジェームス6世としてスコットランドの王位を、ジェームス1世としてイングランドの王位を継承することになっていくのです。

この後の2年はそれまでの彼女の平坦な生活と打って変わって情熱の嵐に身を任せることになります。

そして25歳以降の補囚時代は20年にも及ぶのです。

ドラマでは2度目の結婚相手ジェームズ5世を恋人ボズウェルと共謀して殺害し、その罪で幽閉されるところでジ・エンドとなっていました。

この伝記は彼女が情熱に身を投げ出した2年間の多事多難な様子を克明に描き出し、捕囚20年のエリザベスとメリーの心理的な攻防のやりとりもしっかり描いてくれていました。

結局、メリーは用意周到に張り巡らされていた罠にかかってエリザベス暗殺計画なるものの首謀者として断首の刑に処されてしまいます。1587年のことでした。

子のないエリザベスは、自分と同じくイングランドの王位継承権を保持しているメリーが王位継承権を辞退すれば保釈すると申し出ていたのにメリーがそれを拒絶し続けたのです。f0090954_08555493.jpg

最期はプロテスタントのエリザベスに対して、メリーはカトリックという旗幟を明らかにして女王としての威厳を保った正装で断首台に首を乗せました。落とされた首からカツラが外れ白髪頭がゴロリと転がったそうです。

日本では来年の3月の予定ですが、「ふたりの女王メアリーとエリザベス」が公開されます。

「ブルックリン」や「レディ・バード」のシアーシャ・ローナンがメアリーを、「アイ,トーニャ 史上最大のスキャンダル」のマーゴット・ロビーがエリザベス1世を演じます。

この伝記でも16世紀のイングランドを舞台にメリーとエリザベスの愛憎相半ばする複雑な感情の揺れが描かれていましたが、そのあたりを映画ではどのように表現してくれるのでしょうか。

今から楽しみです。

by zoompac | 2018-12-29 08:57 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「琥珀の夢(下)」伊集院静香_時代の荒波に翻弄されたウィスキー製造事業を成功に導いた「やってみなはれ」精神

f0090954_11284798.jpg上巻では米穀商の鳥井忠兵衛の次男の鳥井信治郎が、小西儀助商店(現在の接着剤製造のコニシ)への丁稚奉公を通じて、主人の儀助にその才を見出され、薬の商いの傍らワイン、ウィスキー、ビールの研究をしていた儀助の手伝いを務めた様子を活き活きと描いていました。

下巻では、1899年、鳥井信治郎が20歳のとき、大阪市西区に、鳥井商店を開業するとこあたりから始まります。

スペイン人兄弟が大阪で経営していたセレース商会を買収し(セレースの自宅は神戸)、スペイン産の葡萄酒を販売するところからスタートします。

ところが日本人の口に合わず売れませんでした。

そこで、「日本人の味覚に合った葡萄酒をつくる」べく、幾度となく甘味料の配合を重ねる研究を続けます。ここに小西儀介の助手としての経験やその折身につけたのか生来の才能だったのか信治郎の味覚の鋭さが活かされます。

そして、ついに、1907年(明治40年)4月に「赤玉ポートワイン」を誕生させたのです。

赤玉ポートワインを市場に出す1年前の1906年(明治39年)、信治郎27歳で商店名を「鳥井商店」から「寿屋洋酒店」へ改名しました。

ライバルは東京、神谷伝兵衛の蜂印葡萄酒でした。

宣伝の重要性を知っていた信治郎は、新聞広告、赤玉楽劇座、ヌードポスターと攻勢に出て「赤玉ポートワイン」の存在を全国的に知らしめました。

蜂印葡萄酒の製造中の不具合が起きる事件に信治郎の宣伝広報攻勢でこの商品「赤玉ポートワイン」は驚異的な売り上げを記録することになるのです。

この赤玉ポートワインの成功が今日のサントリーの誕生の礎となります。

本来なら、こうした成功に胡坐をかいてこじんまりまとまった保守的な会社に移行するところですが、攻め達磨の信治郎は、赤玉ポートワインで稼いだお金を投資してここからウィスキー製造というとんでもない事業に乗り出します。

信治郎は、1921年(大正10年) 42歳で株式会社寿屋を設立します。赤玉ポートワインは国内ワイン市場の60%を占めていた頃です。

赤玉の成功に甘んずることなく、信治郎はさらなる洋酒を国内に広めるべくヒントを得ようと、海外からとあるウイスキー原酒を購入します。

しかしそれはウイスキー原酒とは名ばかりの粗悪な模造アルコールといえる代物で、売り物にはなりませんでした。

偶然のいたずらと申しましょうか、その使い物にならなかったアルコールをたまたま葡萄酒用の樽に入れて放置していたのです。

数年後、その原酒は琥珀色に熟成していました。現在の基準では認められないものの信治郎はそれがウイスキーであることを確信したのです。

この原酒を水などとブレンドしてアルコール度を調整し「トリス」(戦後売り出した「トリス」とは全く別物)と名付けて売り出したところまたたく間に売り切れました。

この成功をきっかけにして、信治郎は国産初のウイスキー製造に乗り出す決意を固めることになったのです。

ウィスキー事業計画には、株式会社組織として社長以外の幹部社員がことごとく反対したと言いますから、この事業は完全な信治郎の「鶴の一声」で決まったことになります。 今の株式会社では、社長の暴走として取締役会で否決された可能性が高いですね。だからサントリーは上場しないのでしょうか?

ウィスキーを日本で製造する事業は、投資が5年も10年も先行し、資金回収は10年後以降というとんでもなくリスクの高い事業でした。

NHK朝ドラ「まっさん」でお馴染みとなった竹鶴政孝を破格の高額の10年契約で雇い、莫大な借金をして山崎蒸溜所を建設したのです。1923年(大正12年)の事です。

1929年(昭和4年) 信治郎50歳のとき初の国産ウイスキーの「サントリーウイスキー白札」(現在の「サントリーホワイト」)と「サントリーウイスキー赤札」(現在のサントリーレッド)を発売します。しかし、売れ行きは芳しくなく、経営不振の為にスモカ歯磨の製造販売権や買収したビール事業を手放すこととなります。

逆にこのときの売り上げ不振が手つかずの原酒をさらに寝かすことになり後々の成功に繋がります。

この艱難辛苦の苦境を救ったのは、じっくり寝かした原酒ともう1つ、皮肉なことですが戦争だったように思います。

1937年(昭和12年) 信治郎58歳で「サントリーウイスキー12年」(現在の「サントリー角瓶」)を発売します。 奇しくも同年7月7日に日中戦争(支那事変)が始まっています。

ドラマ「まっさん」でも描かれていた記憶がありますが、海軍を中心にウィスキーの大量発注が相次ぎました。 この製品の成功により、サントリーのウイスキー事業が軌道に乗ることになったといっても過言ではないと思います。

山崎蒸溜所の地に寝かした原酒は戦災を免れました。

戦後は、GHQからのウィスキーの大量発注です。それだけ味もよく質もよかったのだと思います。そして昭和元禄の時代と共にトリスが売れ、赤が売れ、角が売れ、オールドが売れました。(平社員はトリス、課長が角、部長がオールドといった時代でした)

信治郎は、1962年(昭和37年)2月20日 急性肺炎で亡くなります。享年83歳でした。

後を継いだ、信治郎の次男の佐治敬三の下、1963年(昭和38年)3月に、ビール発売を期して新天地に向かう思いを込めて、ウィスキーの商品名であったサントリーを社名にも用いて、サントリー株式会社に商号変更しました。

失敗を恐れず挑戦することを重んじる信治郎の「やってみなはれ」を、サントリーは21世紀においても創業精神として掲げています。

「ウィスキ~はお好きでしょ♪ もう少~ししゃべりましょ♪ ・・・」

場末のバーでママに作ってもらったハイボールをちびりちびりやりながら、明治生まれの気骨ある創業者鳥井信治郎の物語に想いを馳せてみたいと思っています。

by zoompac | 2018-12-19 11:34 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

「ルネサンスとは何であったのか」塩野七生_塩野七生版ルネッサンスもの作品の集大成!

f0090954_17282956.jpg塩野七生氏にとっては珍しい自問自答の対話形式で書いたルネサンスの解説書になっています。

この書は、「ローマ人の物語」の単行本10巻「すべての道はローマに通ず」という総括的な巻を書き終わったころに書かれたそうです。

そういわれれば、この「ルネッサンスとは何であったのか」は、塩野七生氏の「わが友マキアヴェッリ」、「チューザレボルジア あるいは優雅なる冷酷」、「ルネサンスの女たち」、「神の代理人」等、彼女の著作活動の初期に書かれたルネサンスもの著作集の総括のような読物になっていました。

初期の「ルネサンスもの」の後、彼女は「海の都の物語」、「ローマ泣き後の地中海世界」、「ローマ人の物語」等を書きました。書くためには勉強せざるをえなく、勉強すれば考えるようになる、そうしたプロセスの繰り返しの中から、数々の著作が生まれ、彼女自身の視野が広がったことで「ルネサンス」を俯瞰することができたようです。

「ルネサンスとは、一言で言えば、今までの自分に疑いを持つことだ。」と彼女はこの「ルネサンスとは何であったのか」の中で言っていました。

「そこから始めて、あらゆることに疑いをもっていく。それまで一千年もの間、信じてきたキリスト教にも疑いを持つ。それでは、キリスト教がなかった時代はどうだったのか、ということで古代復興になっていった。」そうです。

「宗教とは信ずることで、哲学とは疑うこと」と言い、ギリシアで哲学が盛んだったのはギリシア時代はキリスト教という一神教の規制を受けなくて済んだからだと女史は言い切っています。疑うという点では、頑迷な宗教とは対極に位置する科学もそうですね。

面白く思ったのは、15世紀前半のルネッサンス全盛期を経済的に支えたメディチ家のロレンツォの生きた時代から200年遡った13世紀前半に異端の神聖ローマ帝国皇帝として教皇から破門されたフリードリッヒ二世の啓蒙活動を塩野氏がルネッサンスの萌芽としてとらえていたことです。

神がすべてという発想から人間重視の考えがルネッサンスとすれば、キリスト教の規制を平気で受け流し、二度も教皇から破門されたフリードリッヒ二世の啓蒙思想がルネッサンスの萌芽だったとする塩野女史の慧眼に感心させられました。

また塩野氏はフリードリッヒ二世と同時期の聖フランシスコの活動もルネッサンスの萌芽としてとらえていました。

清貧と人類愛を説くフランチェスコ会を広めた聖フランチェスコも「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」という政教分離思想の持ち主だったフリードリッヒ二世も共にローマ法王全盛期のイノケンティウス三世の庇護を受けています。

「ローマ法王は太陽はで皇帝は月」と高言したイノケンティウス法王亡き後、この二人の活動が大きな影響力を持ち、ルネサンスの萌芽となったことは歴史の皮肉と言っていいかもしれません。

文字を読めない多くの人に聖書に書かれている事項を理解させるためのフレスコ画法を広めたのはフランチェスコ宗派の教会でした。これがルネッサンス絵画への道を切り開いたとされています。

イノケンティウス法王の次の次の法王の座に座ったのは、イノケンティウス三世の甥のグレゴリウス九世でした。異端審問の制度を整備した厳しい法王としても有名です。

そのグレゴリウス九世と破天荒なフリードリッヒ二世は犬猿の仲でした。度重なる要請にも関わらず、第六次十字軍の遠征を先延ばしにしているフリードリッヒ二世をこの法王は破門宣言を下します。

破門されたまま遠征したフリードリッヒ二世はあろうことか外交力を駆使してイェルサレム王国の正統の世継ぎになる娘のヨランダと結婚し、十字軍史上初の神聖ローマ帝国直々のイェルサレムの聖地入りを果たします。

法王から戴冠された神聖ローマ帝国皇帝の身でありながら法王の赦しも受けず王国の世継ぎながらイスラム教徒の娘と結婚する等、法王に対する尊敬の念が足らないこと等を理由に、まだ1度目の破門が解けていないにもかかわらず、フリードリッヒ二世は二度目の破門を受けてしまいます。

このことから、1228年 - 1229年のこの第6回の十字軍は、破門十字軍、無血十字軍とかフリードリッヒ十字軍と呼ばれています。

ルネサンスに与えたアラビア文明の重要性も注目されているところです。

その点では、アラビア数字、哲学、思想、科学の観点から、アラビア語も解し、大学などを建立し学術の発展に寄与したフリードリッヒ二世を取り上げた塩野七生の慧眼に感心しました。

塩野七生氏が2013年に刊行した「皇帝フリードリッヒ二世の生涯」も読んでみたくなりました。

巻末の対談で文芸評論家の三浦雅士氏が、戦後の日本文学の巨匠の松本清張、司馬遼太郎、藤沢周平の中に、塩野七生を加えるべきだと言っていましたが、その通りだと思います。私にとっては、なんといっても司馬遼太郎と塩野七生です。この二人の作家の作品に共通するのは説得力です。読んでいて納得できることが多く心地よいです。

by zoompac | 2018-12-13 15:14 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「どんまい」重松清_草野球を通じて人々の交流の暖かさと寄り添いの大切さと現実の厳しさを感じさせてくれる群像劇でした。

f0090954_17284794.jpg2016年に刊行された重松清の「赤ヘル1975」には、被爆者たちの歴史と広島カープの歩みが二人三脚よろしく絶妙に配合された感動作となっていました。

原爆を落とされて30年、広島東洋カープが誕生して26年、広島の人々の哀しみ、苦しみ、怒り、祈り、そして希望を巻き込んで、弱小野球チームだった広島カープが、広島市民やカープファンと一体となる高揚感の中、真っ赤な奇跡を起こしたドラマがそこに描かれていました。

それを読んだとき、重松清氏の職人技に舌を巻きました。

そしてそのときの読書感想ブログを私は次のように締めくくりました。

「この小説には続編があるような気がしています。 赤ヘル1975とくれば、次は、江夏の21球の1979年でしょう。その頃、マナブ、ヤス、ユキオ、真理子は高校生ですね。秘かに楽しみにしています。」

この「どんまい」が今年の10月に刊行されたときには飛びつき買いをしてしまいました。

私の予想は見事に外れて空振り三振でした。

おそらく東京の練馬区あたりにあるニュータウン(ちぐさ台ニュータウン)が舞台になっていると思われますが、そこにあるちぐさ台カープという草野球チームにそれぞれの事情を抱えながら寄り添って生きていくチームメンバーの生き様を描いた群像劇になっていました。

半年に渡る離婚調停にケリがついて、離婚届を提出する前日に中学生の香織と今後母娘二人の生活となる洋子は、疲労感と将来への不安感でいっぱいでした。しかしちぐさ台ニュータウンの団地の掲示板に〈メンバー募集 年齢・性別ともに不問〉という草野球チーム・ちぐさ台カープの欠員補充のメンバー募集をみて洋子は衝動的に応募を決意します。

洋子は、子どもの頃、水島新司の野球マンガ「野球狂の詩」のヒロイン・水原勇気(プロ野球史上初の女性ピッチャー誕生という設定の漫画でした)になりたかったことを思い出したのです。

大人になる過程でいろいろな夢を諦めてやってきたのに夫の浮気が原因の離婚です。結果として洋子は現実の厳しさを嫌というほど味わされますが、そのときは離婚で自由となった身にまだ幼かった頃の夢が転がり込んできたと思ったのです。

入会テストの結果はさんざんたるものでしたが洋子は娘の香織と共にちぐさ台カープの補欠要員となります。「どんまい」精神で貫かれている老カントクの方針のおかげでした。

そのチームを創設した老人監督とチームの代表で主将の田村は共に広島県出身でした。この部分で前作「赤ヘル1975」と繋がっていました。

カントクは広島に原爆が投下された当時中学生でした。たまたま原爆投下時に広島市外にいたため命は助かりましたが親兄弟を失ってしまいます。その後、縁あって広島球場の整備の仕事に就き、被爆者だった女の人と結婚しますが先立たれてしまいます。広島が優勝したら広島を離れて東京へ行こうと願掛けしながら広島チームを応援していました。

1975年の広島カープ優勝時に田村は中学生でした。田村の下の名がなかなか出てきませんでしたが、397ページに田村康司の名を発見した時、これは前作赤ヘル1975のヤスのことではないかと思いその発見に興奮してしまいました。

関係ありませんでした。田村は広島の両親が要介護状態で東京-広島間の長距離介護をしています。ヤスの両親は確か原爆で亡くなったという設定だったと記憶していますし、「赤ヘル1975」のヤスは片桐康久という名の別人でした。

昔、「その日のまえに」という7編の短編から構成されている連作集がありました。最後の3編は”その日のまえに”、”その日”、”その日のあとで”という続き物でした。その最後の3編に、前の4編の登場人物をちらりと登場させていたのです。

老獪な熟練職人重松清のことだからそうした隠し玉をこの「どんまい」にちりばめているに違いないと読んだ私の勇み足でした。

チームメンバーそれぞれの家庭の事情、人に言いたくない経歴....をひた隠し、ひたむきに生きる人たちが自分の居場所を求めて集まってきていたのがこのちぐさ台カープという草野球チームであることが、読み進めるにつれてあきらかになります。

洋子と同じ日に応募したのは、チーム唯一の元甲子園経験者、プロ野球で活躍しているエリート投手の元女房役、元大学野球の落ちこぼれで、現ちぐさ台の超大物ルーキーとなるシューダイこと将大(本名はまさはる)でした。彼は教員を目指し奮闘中です。

その他、亡き母を偲んでゲン担ぎのカレーを食べ続ける男、息子の鍛え方に悩み将大に家庭教師を依頼する薄毛の親父、札幌に残した家族を思いながら週末の孤独を草野球で癒す単身赴任のサラリーマン、他人との交流が苦手なそれでも野球はいぶし銀職人のような中学生、親が早々準備した二世代住宅のローンを払い続ける目下お見合い連敗記録更新中の三十路半ばの独身男、実は犠打の名人なのにその伝家の宝刀を封印してフルスイングの魔力に魅せられた男、ちぐさ台の不動産屋の二代目の自己チューのボンボン等の曲者が、重松清の筆によって紹介されます。

そんなちぐさ台のメンバーにも、チーム解散の転機が訪れます。老カントクの健康状態が思わしくなくなり妻の墓がある故郷広島への帰郷を決意します、

主将田村も長距離介護の負担に耐えかねて単身広島(彼の勤める会社は全国規模なので広島で働くことが可能なのです。しかし、妻と息子二人は引越しに反対していたのです。)に戻って親の介護に専念しようと決めました。

将大も教員試験に合格し、草野球どころではなくなりました。

単身赴任男も会社からの辞令で札幌に戻ることになったのです。

諸行無常です。

それでもこのメンバーは老カントクの下で苦境に陥っても諦めない「どんまい」精神を学びました。

それぞれが居心地のよかった古巣「ちぐさ台カープ」から巣立ってそれぞれの新しい場所を「どんまい」精神で切り拓いていって欲しいという希望をもってこの500ページの小説を読み終わりました。

新しい環境下でそれぞれが新たな厳しい現実と向き合わなければならないこともそこはかながら考えさせられる小説でもありました。

by zoompac | 2018-12-07 09:20 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「翔ぶが如く(十巻)」司馬遼太郎_最終巻を読み終わりました。

f0090954_14275574.jpg何かの本で宮城谷昌光氏がこの司馬遼太郎作品の題名について述べていました。

中国最古の詩集である「詩経」の中にある詩「如鳥斯革(鳥の斯れ【これ】革ぶ【とぶ】が如く)、如翬斯飛(翬【きじ】の斯れ飛ぶが如く)」を引き合いに出されて、その詩の内容は、兄弟が仲睦まじくしていて、彼らが新しい家を建てる。その新しい家に兄弟は住むのにふさわしいといった、おめでたいものだそうです。

宮城谷氏は、その兄弟を西郷隆盛と大久保利通に当てはめ、新しい家を明治という国家だと考えると、司馬遼太郎氏の「翔ぶが如く」の小説の題名としてふさわしいものになると結んでいました。

この第十巻は、1877年(明治10年)の2月15日に鹿児島を進発し熊本城を取り囲んだ薩軍が、田原坂等での激戦のを経由し、その後の征討軍(官軍)の上陸等で形勢不利となり、4月に熊本の本営を去るところから始まっています。

人吉に陣営を移し再挙を図った薩軍ですが、5月に官軍の攻撃を受け、6月に人吉は官軍の手に落ちてしまいます。追われるように薩軍が拠点を移した都城も、7月に官軍に占拠され、薩軍は延岡に移ります。その延岡も官軍に占拠され、8月に和田越えで薩軍は官軍との決戦に挑みますが、敗れてしまいました。

完全に官軍に包囲され、解散命令を下された薩軍でしたが、可愛岳を越え、薩軍は脱出します。8月17日のことです。

闇夜に、峻険な岩肌の出た可愛岳の斜面を四つ這いになりながら、西郷が「夜這いごとある」とつぶやいてまわりの者を笑わせた脱出劇でした。

9月に、故郷・鹿児島入りをし、最期の戦いを挑むべく城山に立て籠ります。その城山が陥落し、西郷が自刃したのが9月24日でした。2月から半年に渡った西南戦争が終結しました。

西郷の心酔者であった加賀藩の島田一郎とその仲間が、大久保利通を東京紀尾井町で惨殺したのはその翌年1878年の5月のことでした。

大久保は、自分の命は天の加護に任せるというのが身上で、身辺に注意を払うことがなかったようです。大久保の最後の言葉は、「無礼者!」の一喝でした。

意見の違いから対立したとは言え、西郷は志を同じくした同志であり友人でした。暗殺された大久保はその西郷からの手紙を持っていました。その友人を死に追いやったことを大久保は生涯悔やみ続けたのではないかと思わさせる司馬遼太郎氏の記述が最後にありました。

NHK大河ドラマ「西郷どん」では、瑛太演じる大久保利通と鈴木亮平演じる西郷隆盛が明治という国家を構築するにあたってのプロセスで対立するところです。朝鮮使節派遣もその対立の火種の1つでした。ドラマではいよいよ西郷が職を辞して鹿児島にひっこもうかというときに私はこの長い長い小説を読み終えました。

このペースでいくと、八巻から十巻の三巻に渡って描かれた西南戦争もドラマの回数で1,2回で終わってしまうかもしれません。それでも後はゆっくりドラマを楽しみたいと思っています。

この巻は、逃げ惑う薩軍を山県有朋が必要以上に万全の構えで追い詰めていくだけの後味の悪い筋立てでした。

乱暴な言い方をすれば、西郷と大久保の二人が成した明治維新の負の遺産である不満士族を西郷が統率して自滅させ、これからいよいよ大久保が描く強い国家へリデザインしようとしたところを大久保も暗殺され、世代交代となった節目の物語でした。この明治10年は中央から半ば独立した梁山泊の「薩摩」が実質的に滅んだ年でもありました。

司馬遼太郎氏が、この巻の終わりに西郷と大久保が作りあげた天皇崇拝を掲げる「官」のありようが昭和に引き起こされた愚かしい戦争の遠因らしきことを述べていました。

明治後の西郷隆盛の虚像、あるいは陰画的な西郷像が、多くの人物のエピソードを織り込みながら群像劇のように読ませてもらいましたが、筆者も自ら認めておられたように、西郷隆盛という人物が今ひとつ掴めませんでした。そういう得体の知れない西郷を輩出したのが明治という得体の知れない国家だったのかもしれません。

by zoompac | 2018-11-13 08:50 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「琥珀の夢(上)」_今や日本から世界のサントリーに飛翔した会社の創業者の明治、大正、昭和の物語

f0090954_10313935.jpg上巻は、日本の実業家、サントリー(現サントリーホールディングス株式会社)の創業者となる鳥井信治郎の幼少期から、1899年に20歳で大阪市西区で鳥井商店を起こすまでの物語となっていました。

日経新聞連載の頃、結構読んでいたのですが、本になって読み返すと読み飛ばしていた部分が繋がって新鮮に感じられました。

小学校の頃は、飛び級で高等科へ編入された神童でした。好奇心旺盛な子だったようです。11歳で市立大阪商業学校に入学しましたが、途中で辞め、13歳で大阪道修町の薬種問屋小西儀助商店へ丁稚奉公に出ます。

このときの二代目の店主小西儀介がなかなかの工夫家でした。彼は生薬刻みから洋酒、化学製品へと業容を広げ、店が戦後接着剤メーカー、コニシ株式会社に発展する礎をつくりました。現在ではもっぱらセメダインとかボンドで有名になってしまっています。

「アサヒビール」を最初につくったのも小西儀助商店だったのですが、まずくて売れず商標を手放してしまったようです。ワインや洋酒の方も金が莫大にかかるばかりで途中で断念しますが、二代目の店主・小西儀介がワインや洋酒の研究に没頭しているときに助手として目をかけられ研究の手伝いをしたのが丁稚の鳥井信次郎でした。

やがて、その鳥井信次郎が「やってみなはれ!」を口癖に精進しお師匠さんであった小西儀介の夢だった赤玉ポートワインを完成し莫大な利益を得ながら、危険を冒して小西儀介が不可能だと思っていた日本初の国産ウィスキー製造に取り組んでいくお話です。

まだ定着した言葉ではありませんが、世の職業の概念がAI化等で大変化を起こそうという中、「多価人材」という切り口で今後の労働社会の動きを説明する研究所もでてきました。新規事業が起こせる変化に対応できる人材ということらしいです。「社内副業」、職や人材の流動化という「流職」、から「レンタル派遣」という動きが予想されるわけですが、この近未来の話を聞いたとき、真っ先に私の頭に浮かんだのが、鳥井信次郎の丁稚奉公でした。

小西儀介という師匠に恵まれながら、鳥井信次郎は当時の日本人が思いもつかなかったことに目をつけ、和製ワインや和製ウィスキーを新規事業として立ち上げたのです。

この上巻では西洋人の多く住む神戸に行って、彼らの食生活を研究したり、お兄さんからもらった小遣いを、神戸から小樽までの船旅に使い、西洋人と食事をしながら、ワインや洋酒について、「なんでもみてやろう」という精神で学ぶ姿勢が破天荒で面白いエピソードとして語られていました。

下巻ではいよいよ「鳥井商店」を立ち上げ、「寿屋洋酒店」に名を変え、赤玉ポートワインで急拡大していきます。1921年には赤玉ポートワインで稼いだお金を元手にウィスキー事業に乗り出します。TVドラマ「マッサン」では堤真一が演じていました、ウイスキー留学の経験のある竹鶴政孝(亀山政春、マッサン役を玉山鉄二、奥さん役をシャーロット・ケイト・フォックス)を巻き込んでのドラマとは違った視点の物語の展開を楽しみにしています。

それにしても、サントリーのウィスキーが、森伊蔵化というかロマネコンチ化していますね。

ここ5~6年のブームだと思うのですが、サントリー製のブランドウイスキーである山崎、そして響や白州といった銘柄まで原酒不足による品薄状態が続き、簡単には手に入らない状態になっています。

山崎に関しては、昔発売されていた50年モノが定価の数十倍となる3000万円で取引されるなど、常軌を逸した高騰が見られます。

ネットオークション等で買い占め、転売が進み、「白州12年」は2018年6月頃から、「響17年」は2018年9月頃あたりに販売休止になるとかなったとか・・・・?

さすがの鳥井信次郎も、サントリーウィスキーが本場スコットランドの由緒あるウィスキーメーカー達を座巻してここまでの人気になるとは想像できなかったのではないでしょうか?

by zoompac | 2018-10-31 10:34 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)
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