GORILLAZ
GORILLAZ

Would-be ちょい不良親父の世迷言


映画、読書、ワイン、旅、駅伝、柔道、スポーツ観戦、趣味の世界
by zoompac
S M T W T F S
1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31

カテゴリ
以前の記事
2018年 08月
2018年 07月
2018年 06月
2018年 05月
2018年 04月
2018年 03月
2018年 02月
2018年 01月
2017年 12月
2017年 11月
2017年 10月
2017年 09月
2017年 08月
2017年 07月
2017年 06月
2017年 05月
2017年 04月
2017年 03月
2017年 02月
2017年 01月
2016年 12月
2016年 11月
2016年 10月
2016年 09月
2016年 08月
2016年 07月
2016年 06月
2016年 05月
2016年 04月
2016年 03月
2016年 02月
2016年 01月
2015年 12月
2015年 11月
2015年 10月
2015年 09月
2015年 08月
2015年 07月
2015年 06月
2015年 05月
2015年 04月
2015年 03月
2015年 02月
2015年 01月
2014年 12月
2014年 11月
2014年 10月
2014年 09月
2014年 08月
2014年 07月
2014年 06月
2014年 05月
2014年 04月
2014年 03月
2014年 02月
2014年 01月
2013年 12月
2013年 11月
2013年 10月
2013年 09月
2013年 08月
2013年 07月
2013年 06月
2013年 05月
2013年 04月
2013年 03月
2013年 02月
2013年 01月
2012年 12月
2012年 11月
2012年 10月
2012年 09月
2012年 08月
2012年 07月
2012年 06月
2012年 05月
2012年 04月
2012年 03月
2012年 02月
2012年 01月
2011年 11月
2011年 10月
2011年 09月
2011年 08月
2011年 07月
2011年 06月
2011年 05月
2011年 04月
2011年 03月
2011年 02月
2011年 01月
2010年 12月
2010年 11月
2010年 10月
2010年 09月
2010年 08月
2010年 07月
2010年 06月
2010年 05月
2010年 04月
2010年 03月
2010年 02月
2010年 01月
2009年 12月
2009年 11月
2009年 10月
2009年 09月
2009年 08月
2009年 07月
2009年 06月
2009年 05月
2009年 04月
2009年 03月
2009年 02月
2009年 01月
2008年 12月
2008年 11月
2008年 10月
2008年 09月
2008年 08月
2008年 07月
2008年 06月
2008年 05月
2008年 04月
2008年 03月
2008年 02月
2008年 01月
2007年 12月
2007年 11月
2007年 10月
2007年 09月
2007年 08月
2007年 07月
2007年 06月
2007年 05月
2007年 04月
2007年 03月
2007年 02月
2007年 01月
2006年 12月
2006年 11月
2006年 10月
2006年 09月
2006年 08月
2006年 07月
2006年 06月
2006年 05月
2006年 04月
2006年 03月
お気に入りブログ
最新のコメント
歴史探偵の気分になれる ..
by omachi at 19:18
突然のコメント、失礼いた..
by 本が好き!運営担当 at 22:42
情報、ありがとうございま..
by zoompac at 16:14
村尾選手の居た灘中は姫路..
by yy at 13:17
お読みになってなかったの..
by machi at 19:34
コメント、ありがとうござ..
by zoompac at 08:00
南陽からの移籍組は渡邊、..
by 田中 at 12:45
どういたしまして! ブ..
by zoompac at 09:58
情報ありがとう
by 駅伝ファン at 00:51
tarukosatoko..
by zoompac at 06:43
メモ帳
最新のトラックバック
venushack.co..
from venushack.com/..
whilelimitle..
from whilelimitless..
http://while..
from http://whileli..
亡くなっても続く、その愛..
from 笑う社会人の生活
http://www.v..
from http://www.val..
揺らぐこころ
from 笑う社会人の生活
ボッティチェリの初期から..
from dezire_photo &..
「消えた声が、その名を呼ぶ」
from ここなつ映画レビュー
美しき三角関係?プラトニ..
from dezire_photo &..
美しき三角関係?プラトニ..
from dezire_photo &..
ライフログ
検索
タグ
その他のジャンル
ファン
記事ランキング
ブログジャンル
画像一覧

タグ:読書 ( 115 ) タグの人気記事

読書「傍流の記者」本城雅人_新聞社の内情(政治部と社会部の対立、政府と報道機関の持ちつ持たれつ等)がよくわかる小説! 

f0090954_14012317.jpg現在は政治部によって傍流に追いやられたものの、かつては東都新聞の看板だった社会部に配属された6人の同期入社の男たちは、それぞれに成果を上げ、40代半ばとなった現在では、別の道(人事畑)を選んだ1人を除く5人で社会部の部長の座を争っています。

その同期6人が、6つの短篇でそれぞれに主役を務める形式をとっています。

優秀な野球選手(プレイヤー)が、優秀な監督(マネージャー)になれるとはかぎりません。

しかし彼らは出世と共に部下を持たされ、部下の面倒を見ていかなければなりません。昨日までのプレイヤーがいきなり監督としての職責を背負わされその能力も問われるのです。

皆、優秀で、自ら取材方法を工夫してプレイヤーとしての成績を上げてきた猛者だけに、部下の不出来をどう指導していいのか戸惑うばかりです。あまり厳しくすると辞めて競合他社へ転職してしまい監督能力に問題ありとなってしまいます。

優秀な記者ばかりがそろった黄金世代ですが、社会部長になれるのはひとりだけです。生き残っているのは得意分野が違う五人の男です。彼らが、人事畑に移った1人を含めて6篇の物語の主人公になってこれまでのサクセスストーリー(成功体験)、これまでの6人の同期生同士のしがらみと今の部下を抱えた困惑の状況がそれぞれの物語として描かれています。

それぞれが、部下の転職や妻との関係、職場における上司や同僚との関係等の苦悩に惑いながら出世レースは佳境を迎えますが、会社が倒れかねない大スキャンダルが男たちを襲います。

政府と報道機関の関係や、それを反映する政治部と社会部の関係を深掘りするいい作品に仕上がっていました。

「大統領の陰謀」や「ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書」の映画でニクソン政権を相手取って報道の自由を守り通した「ワシントン・ポスト」の矜持がまだ記憶に新しいですが、この「傍流の記者」はこれはこれで現実味溢れる日本の報道の世界の一部を組織の論理と個人の矜持という対比にうまく落とし込みながら切り取ってくれていました。

島本理生の「ファーストラヴ」が受賞作品となった159回直木賞候補作の中から、私が読んだのは湊かなえの「未来」、木下昌輝の「宇喜多の楽土」とこの本城雅人の「傍流の記者」の3冊だけでしたが、私にとってはこの作品が一番直木賞に近く思えました。

野球の新人ドラフトのような制度を描いた、第四話の「選抜の基準」という短編では、政治部手はなく社会部が1位、2位の新人取得権を許されながら、長い眼でみてそのトップツーをあえて外す選択をした話が面白かったです。

この社会部部長の座を目指した出世レースも、ネタばれになりますが、5人の有力候補がそれぞれに不本意なポストに就き、第三者に明け渡す結果になります。

この「選抜の基準」という短編が結局この6篇の短編を総括するような役割を果たし、エピローグにおいてその人事の意味合いが明らかになるところは見事でしたが、ここのところはちょっと遊び心が暴走している悪ノリ感を覚えてしまいました。それぞれ6人の苗字の頭1字をとっての言葉遊びも面白くはありましたが、なくても、いやむしろない方がよかったように思います。

このあたりのポイントを直木賞の選考委員の先生方がどのようにコメントされるのか楽しみです。

構成は以下のようになっていました。

プロローグ
第一話 敗者の行進
第二話 逆転の仮説
第三話 疲弊部隊
第四話 選抜の基準
第五話 人事の風
第六話 記憶の固執
エピローグ

by zoompac | 2018-07-27 09:14 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書 「街道をゆく24 奈良散歩」_「奈良はある意味では、長安の都が冷凍保存された存在だともいえる」という司馬遼太郎氏の言葉に突き動かされて7月のはじめ奈良見物に行ってきました。

f0090954_09201165.jpgこの24巻には「近江散歩」も入っているのですが、とりあえず読んだのは「奈良散歩」だけです。

司馬遼太郎氏が、二月堂の界隈にある下ノ茶屋の屋根に瓦焼きの小さな鍾馗さんを見つけて、その話に及びます。

ある夜、唐の玄宗皇帝が病を得て寝ていると夢にいっぴきの小鬼があらわれます。正体をたずねると病の鬼だといいます。玄宗が宿直を呼ぶと、大鬼があらわれ、小鬼をかみ殺してしまいます。大鬼の正体をたずねると進士鍾馗と名乗ります。科挙の試験に応じて合格せず、御殿の階をつかんで死んだというのです。

道教では(日本の神道もその影響を受けていますが)生前、志を遂げずに死んだ者は恨みを残すのだそうです。

玄宗は、彼の死を憐れみ、死骸に緑袍を着せて葬ってやりました。鍾馗はそれを恩に感じ、世の魔物を除くべく志すことを言上し、やがて消えました。同時に玄宗の病も言えたそうです。

以後、唐においては門前に鍾馗像を描いて魔除けにすることが流行したそうです。

東大寺は遣唐使帰りのいわば溜まり場でしたので、先進国唐で流行する魔除けが、屋根に鍾馗を置くという伝承になったのではないかと想像力豊かに書いていました。

さらに、「奈良が大いなるまちであるのは、草木から建造物にいたるまで、それらが 保たれているということである。世界じゅうの国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集してれているところはない。奇蹟といえるのではないか」と言葉を加え、唐の都長安(今の西安)のことに言及します。

その西安(昔の長安)には、大唐を偲ぶものとして、大雁塔・小雁塔が残されているだけで、その他、大唐の栄をしのぶ建造物はなにもないと言うのです。

「むしろ長安は奈良にある」ということを、唐招提寺の金堂や講堂を眺めながら司馬氏が思ったという下りが強烈に印象に残りました。

私が訪れた7月の奈良は、中国人をはじめとして多くの外国人観光客で溢れかえっていましたが、中国人観光客の中に古都長安を偲んで来られている方々もいるとすれば嬉しいですね。

司馬氏は「奈良はある意味では、長安の都が冷凍保存された存在だともいえる」とまとめていました。

奈良朝の建築物は唐から学んだものと思われます。しかし、唐代にも日本の仏教建築の重要な特徴である木造五重塔のようなものは存在しなかったはずだとも言っています。

それ以前の飛鳥時代となると、唐からじかに学ぶ条件が十分でなかったようです。しかし手近な朝鮮に輝かしい技術があり、渡来工人たちが造塔造仏をしたようです。

中国にも朝鮮にもない日本独自の木造の五重塔(法隆寺の五重塔等)を建てたのは百済系の技術者ともいわれていますが、薬師寺の五重塔はあきらかに大陸系の技術の影響を受けているようです。大陸で学んだ技術者が関わっていると言っていました。

いずれにせよ日本古来の木を扱う人たちの技術と経験なども融合され、日本独自の五重塔という建築様式が生まれたのではないかとを語っている箇所は非常に興味深かったです。

新技術を取り入れながら創意工夫をし日本独自のモノを創り出すルーツがこの日本独自の形式としての五重塔にあるとしたらそれはロマンですね。

そういう点では、奈良は長安の面影を残しつつもやはり日本独自の文化の継承の足跡を残した日本の古都といえそうです。

そもそも国宝とされている大小様々な奈良の仏像もそもそも仏教本来の教義ではむしろ禁じられているほどです。司馬氏はヘレニズム文化の影響を挙げられていましたが、シルクロードの東端としての当時の国際都市奈良に唐や新羅、さらにはペルシアあたりからもいろいろな建築様式や技術が入ってきてそれに日本独自の木造建築や木造の仏像作製の技術と融合したと想像すれば楽しいですね。興福寺に祭られている阿修羅像のなんと端正であることか! あの愁眉がたまりませんね。

その興福寺に関する司馬氏の記述も面白かったです。

藤原氏の氏寺だった興福寺が明治維新の廃仏毀釈前はまことに広大な境内を持っていて、奈良ホテルはもちろん、料亭旅館の菊水楼やこれまた料理旅館として有名な「江戸三」等が所在する奈良公園までもがその境内に含まれていたそうです。

鎌倉期までの日本政治史は、藤原氏の家族史でもあり、権力と富はこの一門に集まりました。興福寺の大檀那が藤原氏であり、その藤原氏の氏寺である以上、平安期いっぱい興福寺には荘園が寄進され続け、その荘園は大和地方に集中したものと思われます。その経済力は、僧兵を擁し、中央から地方長官として大和国の国司がきても相手にせず大和一国を私領化していました。平安後期のことです。

頼朝が鎌倉幕府を興した時も、大和における興福寺の勢力に手がつけられず、頼朝は妥協し、興福寺をもって「大和守護職」とし、そこは武家不入の地とされました。室町・戦国の時代には興福寺の僧兵だった筒井順慶(1549~1584)が大名になったほどでした。

織田・豊臣政権で興福寺は大きく寺領を削られましたが、江戸期の幕府はそれでも2万余石を与えました。

明治になって廃仏毀釈が決まり興福寺の僧たちは争って同じ藤原氏の氏神であった春日大社の神官に転職したそうです。

興福寺は廃仏毀釈後一時廃墟のようになったと言われています。今の国宝五重塔も二束三文で売りに出されたが誰も買わなかったとか、それで処分に困って焼かれようとされたと聞いています。

藤原家末裔の興福寺の僧達の狼狽ぶりが歴史に残ってしまいましたね。

司馬氏はまことに厳しく言っています。明治初年、旧興福寺の僧徒が、真に仏教徒であったら、戦国期、織田信長に対して抵抗した一向一揆のように、明治の 太政官政権に抵抗することもできたはずであると。

旧興福寺(廃仏毀釈前の興福寺)の欠陥はこの巨刹を構成していた塔頭院のぬしがことごとく京の公家(藤原氏)の子であったことでした。平安時代から明治維新まで1000年余りに渡って興福寺は京の藤原公家の出店でした。

明治維新の廃仏毀釈の決定に、仏教の権威、信仰も投げ出して興福寺を捨ててしまいました。僧をやめ神職にならねば禄も位も失うという焦りの中でパニック状態に陥ったようです。

興福寺は法相宗ですが、司馬氏は「千数百年の法相学は、反故のように捨てられた」と冷たく言い放っていました。

今月初めに奈良見物に出かけましたが、そういう藤原氏の1000年の歴史を俯瞰した視線で眺める興福寺の五重塔の美しさには背負った歴史の重みが頭に入っていたためかそこはかとない悲哀を感じました。

今、700年の歴史を持つヨーロッパの「ハプスブルク家」の本を読んでいますが、続いてこの1000年の歴史を持つ「藤原家」の本も読んでみたいと思っています。

by zoompac | 2018-07-26 09:20 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「ローマ人の物語5 ハンニバル戦記(下)」_二人の天才武将カルタゴのハンニバル45歳対ローマのスキピオ33歳の直接対決@ザマの会戦、BC202

f0090954_14005343.jpgこの3~5巻のハンニバル戦記(上中下)は圧巻でした。

3巻(ハンニバル戦記上巻)では、ローマの勝利に終わったBC264年から23年にわたる第一次ポエニ戦役と、BC218年に始まるその次の第二ポエニ戦役までの23年間の計46年間のことがハンニバルのお父さんの物語として書かれていました。

そして、4巻(ハンニバル戦記中巻)でいよいよ戦の天才ハンニバルの登場です。

紀元前218年の5月、29歳のハンニバルは、準備した全軍を率いてカルタヘーナを出発しました。

「後世に生きる私たちは、あの時点ではハンニバルだけしか知っていなかったことを知っている。ハンニバルとその軍はエブロ河を北に渡り、ピレーネー山脈を越えて現フランスであるガリアに入り、ローヌ川を渡ることでフランスを横断し、アルプスを越えてイタリアに進攻したことを知っている。大軍を率いて象まで連れてアルプスを越えたハンニバルこそ、その後の2200年、歴史に興味を持たない人でも話に聴いている有名な史実になった。」

こうしてイタリアに乗り込んだハンニバルは、各地で次々とローマ軍を打ち破っていきます。そのローマ側の負け戦の将の中には、5巻で主役となるローマの若き将スキピオのお父さんも含まれています。危うく命を落としそうになった父を救ったのが初めて従軍した17歳のスキピオでした。

喉元に刃を突き付けられたローマは意を決しついに決戦を挑みます。会戦の場所は南イタリア、アドリア海に面したカンネの平原でした。

このとき31歳になっていた武将ハンニバルは、兵力でややハンニバル軍を上回るローマ軍に対峙して積極的な行動は何一つ起こしませんでした。ローマの司令官たちがハンニバルの策略にはまることを極度に警戒していることを見抜いていたからです。彼らを会戦に誘い出すには彼らの警戒心を解く必要がありました。そのため、緒戦はわざと負けて戦いの主導権はローマ側が手中にしていると思わせたのです。

積極攻勢に出てきた敵の主力の歩兵部隊に自軍の精鋭を当てて釘付けにし、その隙にローマ騎兵を叩いて、相手の機動力を封じた後、改めてハンニバル軍の強みでもある機動力を活かして全兵力でローマの歩兵を包囲したのです。カンネの戦いでの犠牲者はローマが7万人、勝ったハンニバル側は5,500人で、そのほとんどがガリア兵でした。

ローマの全歴史を俯瞰しても、ローマがこれほどの敗北を喫したのはこのカンネの会戦が最初にして最後となりました。

ハンニバルが獅子身中の虫のようにイタリア内に喰いついて暴れるという窮地の中、やがてローマの救世主となる1人の青年がローマの元老院に現れました。わずか24歳に過ぎなかった青年スキピオは、資格獲得に16歳も不足していたのに自分を司令官として戦線に派遣して欲しいと申し出ます。その要求を拒めないほどローマでは人材が払拭していました。

こうして第二次ポエニ戦役の舞台に、ハンニバルに勝るとも劣らないもう1人の天才武将スキピオが登場しました。

塩野七生女史は言います。「私には、アレクサンダー大王(BC356~BC323 )の最も優秀な弟子がハンニバル(BC247~BC183)であるとすれば、そのハンニバルの最も優れた弟子は(ハンニバルより12歳年下の)このスキピオではないかと思われる。そしてアレクサンダーは弟子の才能を試験する機会をもたずに世を去ったが、それが彼の幸運でもあったのだが、ハンニバルの場合は、そうはならなかったのであった。」

スキピオはハンニバルの足跡を逆行するようにしてスペインへ赴きました。

冒頭でハンニバルがスペインのカルタゴの本拠地であるカルタヘーナ(新カルタゴの意)を出発したのがBC218年でハンニバルが29歳のときだと申し上げました。スキピオがそのカルタヘーナを攻略したのはBC209年でスキピオが27歳のときでした。スキピオは相当ハンニバルの戦い方を研究していたようです。スキピオの戦略・戦術はハンニバルのそれにそっくりでした。

スキピオはスペインの地でカルタゴ勢を蹴散らし、その華々しい戦果で、これまた資格年齢に達していなかったのですが、31歳でローマの執政官に選ばれます。彼が、次に矛先を向けたのが、北アフリカにあるカルタゴ本国でした。

ハンニバルは、スペインのカルタゴ勢壊滅に続いて次の標的がカルタゴの本拠地でそこも狙い撃ちにされたことから、カルタゴ本国への撤退を決めました。BC203年の事です。彼がカルタヘーナを出発しアルプスを越えイタリアに攻め込んでから実に15年の歳月が経っていました。齢も43歳に達していました。

スキピオに率いられたローマ(4万)とハンニバルに率いられたカルタゴ(5万)の両軍は、カルタゴから内陸に入ったザマの地で相対しました。このあたりの醍醐味は、塩野七生氏の原文で味わってみてください。P.58~P.91に渡って塩野女史の筆が楽しそうに踊っています。

この戦いは戦略戦術の上での師と弟子とのはじめての直接対決でもありました。さらに興味深いことにスキピオがそう仕向けて(講和条件を提示して)ハンニバルが戦いの前に会談を申し入れているのです。

講和条件に関する会談は決裂し、ザマの会戦(BC202)決戦となりましたが、14年前にカンネの平原で起こったのと同じ状態が、ザマの平原で再現されたかのようでした。45歳の古代屈指の名将ハンニバルは、部下が次々に殺されていくのを見守るしかありませんでした。12歳年下の弟子ともいえるスキピオの一方的な勝利でした。

この「ザマの会戦」での勝利は、ローマにとって単にカルタゴとの戦いに勝ったということだけではなく、地中海世界全体も決することになりました。(BC190 シリア、ローマに敗れ講和、ローマが地中海のほぼ全域の制海権を獲得、BC146カルタゴ滅亡、ローマの属州となる、BC146マケドニア王国領がローマの属州となる)

ザマの会戦の勝利に報いるため、スキピオには「アフリカヌス」という尊称が贈られました(北アフリカを拠点としていたカルタゴ軍を破ったため) しかし、共和制のローマは英雄を好みません。親戚のスキャンダルをきっかけとしてスキピオは失脚し、ローマ政界から姿を消してしまいます。BC183年にスキピオ・アフリカヌスは、リテルノの別荘で亡くなりました。享年52歳でした。奇しくも、ハンニバルもイタリアからもカルタゴからも遠く離れた黒海沿岸のピティニアで同じ年に64歳で死を迎えました。

生まれたのがハンニバルがBC247、スキピオがBC236のほぼ12歳違い、歴史に登場したのがハンニバルがスペインカルタヘーナを出立した29歳、スキピオはハンニバルの足跡を逆にたどりカルタヘーナを攻略した27歳、ハンニバルのイタリア進攻の天王山となったカンネの会戦に勝利したのが31歳、スキピオがその後のローマの地中海世界を制覇するきっかけとなったザマの会戦でハンニバル率いるカルタゴを完膚なきまでに破ったのが33歳、そして同じ年のBC183年にハンニバルは64歳、スキピオは52歳で亡くなりました。

同時代に生まれた二人の天才武将の手に汗握る活躍劇を是非塩野七生節でお楽しみください。

by zoompac | 2018-07-25 09:43 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「翔ぶが如く(八)」司馬遼太郎_いよいよ西南の役に突入です。

f0090954_05132575.jpgいよいよ西南の役が始まりました。

1877年の2月15日に始まって9月24日の西郷の城山での自刃で終結しました。7ヶ月余りの内乱です。

これまで「坂の上の雲」「峠」「項羽と劉邦」「関ケ原」「城塞」等での素晴らしい司馬遼太郎氏の戦闘シーンの描写の数々を読んでいながら今更何を言っているんだと言われそうですが、西南の役の戦闘シーンの描写もさすがにうまいですね。視覚に訴える迫力があります。

最近読んでいる「ローマ人の物語」の塩野七生氏もこの戦闘シーンの描写がわかりやすいです。ハンニバルの戦いぶり等を読んでいると胸のつかえがとれるかのようです。

同時代に生きて、司馬遼太郎や塩野七生の作品を思う存分読めることは幸せなことです。孫君にもこれだけは自信をもって言えます。「司馬遼太郎と塩野七生の著作を読め!人生を何倍にも豊かにしてくれる!」

今回は「翔ぶが如く」文庫本の巻末にある地図を何度も参照しながら読みましたが、西南の役の古戦場である田原坂の地理的位置をこれまで薩摩と熊本の間にある場所であると勘違いしていたことに気づきました。

薩軍が熊本城を陥落できなかったことからそう思い込んでいたのだと思います。 田原坂は熊本城より北に位置し、東に阿蘇山を眺め、田原坂から真北の延長線上に山鹿がありそのさらに北に久留米があることがわかりました。

この八巻では田原坂の激戦(3月4日から16日間の戦闘)はまだ描かれていませんが、熊本城から北にある高瀬という地点から東へ阿蘇山方向にある植木という地点を結んだ途上にあるのが田原坂でした。

高瀬から田原坂を経由して植木に至る道を三角形の底辺に例えるならば三角形の頂点に山鹿という地があり、大雑把に言ってこの高瀬と植木と山鹿を結ぶ三角形で政府軍と薩軍の激突が繰り広げられたのが西南の役でした。

その戦いの構図も、谷干城率いる熊本城内に籠城を決め込んだ鎮台兵の意外な強さに手を焼いているうちに、小倉にいた乃木希典率いる政府軍が久留米から山鹿、高瀬を通り植木にと南下してきます。

本来、乃木軍は熊本城に入城したかったのですが、薩軍が一部をもって熊本城を囲み、一部をもって城北の植木に進出して乃木軍の南下入城を阻止するという二面作戦をとったため、うまくいきませんでした。

乃木軍は熊本城に入城したいのですが、熊本城を薩軍に囲まれているので、遊撃隊として薩軍を外から伺っている感じです。

同じ長州出身ながら乃木希典と児玉源太郎の戦略眼の優劣と戦場での指揮能力の優劣は極端です。司馬遼太郎は乃木希典の将としての無能さについて、同じ長州出身の天才といわれた児玉源太郎と対比して「坂の上の雲」でも手厳しく書いていましたが、この西南の役での乃木希典の率いる軍の弱さについても容赦がありません。

植木で薩軍の待ち伏せにあった乃木軍は逃走中に連隊旗を奪われる不名誉を犯してしまいます。植木から田原坂を越え高瀬に戻る途中にある木葉という地で態勢を整えた乃木軍は翌日、追尾してきた薩軍に挑みますが、合流した後続部隊共々乃木連隊は大量の武器弾薬を捨て西(高瀬方向)に逃走する憂き目にあってしまいました。

このとき薩軍は追撃して戦果を拡大するべきでした。しかし攻めあぐねて取り囲んだ熊本城から離れることを本能的に嫌ったためか、植木まで退却してしまったのです。戦術として感の悪かった乃木の戦いぶりは仕方ないにせよ、薩軍の戦いぶりは喧嘩のようなものでうるさい蠅を追い払っただけだったのです。今後続々と送り込まれるであろう政府の後続隊のことを戦略的に考えるならば、今後の備えとして高瀬付近はしっかり押さえておくべきでした。

結局、増援され乃木希典より位が上の将が率いる政府軍が南下してくるにいたっては、その場しのぎの対処ではさばききれなくなってくるのです。熊本城をなかなか抜けない見込み違いの中、敵の打ち捨てた弾薬と兵器を活用できた薩軍もそれらの消費物の補給に困難を感じ始めてきます。

いったん、高瀬までも空にした政府軍は、後続の支援や武器弾薬の補給もあり、また高瀬に集結しはじめます。

これに対して薩軍の一部が押しかけ、この西南の役における事実上の関ケ原となった「高瀬の戦い」が始まりました。

2月24日のことです。

緒戦の乃木連隊の連戦連敗を戦訓とした政府軍(第一旅団の将・野津鎮雄、第二旅団の将・三好重臣)は近距離の白兵戦を避け、銃撃戦をとる作戦に切り替えてきました。政府軍兵の銃は新式スナイドル銃であったのに対して、薩軍の銃は旧式ミニエー銃でなかには火縄銃を持っている者さえいたのです。

いったん高瀬に突入して占拠を果たした薩軍も、政府軍の包囲射撃に辟易して退却を余儀なくされます。

それで西南の役における初勝利をあげた政府軍でしたが、それに対し薩軍は桐野利秋、篠原国幹、別府晋介、村田新八の四将が率いる主力部隊をつぎ込みました。2月26日のことです。薩軍が鹿児島を出て以来最大の戦いとなりました。高瀬の会戦の第三戦目になります。これが事実上の関ケ原と呼ばれる戦いになりました。

桐野利秋(3個小隊約600名)率いる右翼隊を山鹿方面へ、篠原国幹・別府晋介(6個小隊約1,200名)率いる中央隊を植木・木葉方面へ、村田新八(5個小隊約1,000名)率いる左翼隊を吉次・伊倉方面へ配しました。

桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある官軍の背後連絡線を攻撃し、善戦しましたが、桐野が軽んじた戦略の要地・稲荷山を政府軍(第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(弟))に確保されたため形勢が逆転してしまいました。この戦略的に重要な山を占領した官軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けることになり、次いで、南下してきた野津鎮雄少将(兄)の兵が右翼隊の右側面を衝いたので、猛将桐野の率いる右翼隊も堪らず、江田方面に退くことになりました。この稲荷山は低丘陵ですが、この地域の戦略的要衝であったので、ここをめぐる争奪戦を西南戦争の天王山とも呼んでいます。

村田新八率いる左翼隊も菊池川渡河に成功し、フロックコートに身を包んだ村田の戦略・戦術で善戦していましたが、篠原国幹・別府晋介率いる中央隊が弾切れとなって戦場から引き上げてしまったため、勝っていた村田新八軍は敵中に置き去りにされ血路をひらいて戦線離脱を図るはめになってしまいました。

山県有朋が兵器・弾薬の補給に全力を尽くしたのに比べ、薩軍は少年の喧嘩のような無邪気さで弾が無くなったから戦を止め引き上げてしまうという始末でした。

西南の役は、まだまだ序の口です。

白兵戦に滅法強い薩軍ですが、時間の経過とともに、兵器や弾薬の補給の弱さが露見してきます。

次の九巻、さらに十巻と西南の役は続いていきます。 雨は降る降る人馬は濡れる 越すに越されぬ田原坂、というあの唄にある田原坂での激戦が活写されるのが第九巻です。1987年年末の時代劇「田原坂」で小椋佳作詞の「遥かなる轍」を主題歌として自身が作曲した歌を堀内孝雄が唄っていました。あの曲の「こうとしか生きようのない 人生がある せめて消えない 轍を残そうか」のリフレイン部分を頭に思い浮かべながら九巻を読もうと思っています。

by zoompac | 2018-07-23 09:47 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書 「未来」 湊かなえ_ちょっと物足らなかった第159回直木賞候補作!

f0090954_06590898.jpg物語の冒頭で10歳の主人公・佐伯章子のもとに、未来の自分(20年後の30歳の章子)だと名乗る人物から手紙が届きます。

「努力した先の未来には、楽しいことが待っている。」

「さびしいときは本を読めばいい。心にうかんだことを書いてみるのもいい。」

「言葉には人をなぐさめる力がある。心を強くする力がある。勇気を与える力がある。」

等のメッセージがそこにはあるのです。

その後、物語は佐伯章子の事だけに止まらず、同じクラスの須山亜里沙、その知人の後藤実里、元佐伯章子の担任だった篠宮真唯子(しのみやまいこ)や佐伯章子の父の事にまで拡がり、佐伯章子の物語を時空の中でいろいろな人々の物語を通じて俯瞰できるような展開になっていきます。湊かなえ作品にお約束の、イジメ、DV、性的虐待、AVなどのエピソードがテンコ盛りですが、このあたりはよく書き込まれていて、その筆力はさすがだなと思わされました。

ただ、こうした俯瞰図から見えてくる佐伯章子の未来に明るさが感じられません。どんなつらい過去であっても未来は過去から決別できるというメッセージを期待したのですが、そうした救いの手が一切差し伸べられていませんでした。身も蓋もないってヤツですね。

結局、どの登場人物の未来も過去に飲み込まれている感じなのです。最後に佐伯章子が取った勇気ある選択も結局は負のスパイラルの延長線上としか思えないのですがそこのところはどうなのでしょうか?

結論にイヤミス(嫌な感じのミステリー)の究極を持ってきたのなら、その効果はあったといえます。読後感がもやもやしてすっきりしなかったです。著者のこの小説「未来」のタイトルを通じて読者へ伝えたかったメッセージを図りかねました。

冒頭の未来の自分からの手紙に同封されていたデズニーランドがモデルのような30周年記念の栞についても、それが造られたいきさつの説明がありましたが、13周年記念と間違えて作ったのかどうか・・・なんだか不自然で現実味の薄い頭を傾げるような書き方になっていました。このあたりはちょっと支離滅裂で読むに耐えない感じを覚えました。

この箇所を読みながら、私はともかく直木賞の選考委員の1人である緻密なトリックが売りの東野圭吾からは相当厳しく突っ込まれるのではないかと想像して、思わず頬が緩みました。

ダークストーリーの旗手・桐野夏生も選考委員の1人です。彼女この小説に対する評価も楽しみです。

直木賞選考委員の選評は8月22日発売のオール読物9月号に掲載されるはずです。

ちなみに、第159回直木賞には、島本理生さん(東京都出身の35歳)の「ファーストラヴ」が選ばれました。

by zoompac | 2018-07-20 09:20 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「君たちはどう生きるか」_漫画版を小6の孫に読むように勧めてみるかな?

f0090954_15005172.jpg含蓄の深い本だと思います。今年小学校6年の孫に読ませたいと思いますが、興味を持つか持たないかはわかりません。

自分自身が小学校高学年か中学生のとき大人から勧められてもたぶん読まないだろうなと思う本を孫に何とか興味をもってもらおうとも思いません。

この本は逆に子供の頃に読まなかった大学生やいい大人が読んで自分の多感な中学生時代を懐かしむにふさわしい本だと思います。

もちろん、孫がこの本に興味を持ってくれて、その感想等をいろいろ意見交換出来たら楽しいに違いないのですが、それはそれでちょっと不気味で腰を引いてしまうかもしれません。

いい大人が子供に読んで欲しいと思う本ほど子供にとって退屈な本はないように思われます。

基本的に子供は道徳とか哲学とかの話題、それも上から目線の話は嫌いではないでしょうか?

私の中学時代も、親から読むなといわれていた柴田錬三郎の眠狂四郎シリーズを隠れて読むことが何より楽しみだった経験があります。

人間は基本的に自己中心的です。聞きたいことしか人の話は聞きませんし、興味がわくことにしか関心を持ちません。

主人公コペル君はそこのところに気づいたのかもしれません。

デパートの屋上から街を眺め、人の流れを俯瞰し人間一人一人は水の分子のように見えることを発見しました。

そこから叔父さんはコペル君のその発見を誉めそやし地動説を発見したコペルニクスにちなんでコペル君というニックネームをつけました。

物事を自分中心に考えるのではなく(天動説?)、他人の気持ちなどを思いやること(天動説?)が大切だということでしょう。

似たようなことを司馬遼太郎氏が「21世紀に生きる君たちへ」に書いていました。

人間は社会という支え合う仕組みのなかで生きているのだから、自己中心に陥るのではなく助け合って生きていかなければならない。そのためには自分に厳しく、相手にやさしくという自己を確立すべきだという旨のことでした。

まあ、私は司馬遼太郎でも吉野源三郎でもないので、私自身の行動を振り返っても恥ずかしくなるようなことを孫に説くつもりはありません。

ただ、この本のナポレオンのことを書いた下りは少々興味をひかれました。

この本が刊行されたのが1937年ですから、第二次世界大戦がはじまる2年前です。満州事変が始まって6年後の時代に、当時誰もが英雄とみなしていたたナポレオンに対して批判をしています。ナポレオンのロシア遠征で命を落とした60万人の外国人部隊の末路に触れて次のように言っていました。

「60万人の人々には家族もあれば友達もあった。だから、ただ60万人が死んでいったのではなくその彼らと繋がっているその何倍もの人達があきらめきれないつらい涙を流したのだ。それほどまでに多くの人々を苦しめる人間となってしまったナポレオンの権勢は、世の中の正しい進歩にとって有害なものと化してしまった。そんなナポレオンの没落は避けられないし、歴史は事実そのように進行した。

さらに追加して、「英雄とか偉人とかいわれている人々の中で、本当に尊敬ができるのは人類の進歩に役立った人だけだ。彼らの非凡な事業のうち、真に値打ちのあるものは、ただこの流れに沿って行われた事業だけだ。」

今から80年前のあの時代にあって、戦争批判ともとらえられかねないこうした主張はなかなか勇気のいることだっただろうと思うにつけ印象に残りました。

最近読了した「ジョゼフ・フーシェ」(ナポレオンの部下の警察大臣でしたが、ナポレオンが最も恐れた男として描かれていました)を書いたシュテファン・ツヴァイクは、オーストリア生まれのユダヤ人作家です。多数の伝記文学を著しました。特に歴史小説の評価が高く、「ジョゼフ・フーシェ」の他、「マゼラン」、「マリー・アントワネット」や「メアリー・スチュアート」が有名です。ナチス政権下での迫害を逃れるため、スイス、英国、米国、ブラジルを転々としました。

そのシュテファン・ツヴァイクも人類の進歩とか人間の進歩を重視した言葉を発しています。

「人間は自分の生活を有意義なものだと感じていればこそ、人間らしく生きて行かれる。それと同様に、私たちは過去に対しても、私たちの人間性のより高い段階へと発展していくのだという意義を与えることができるからこそ、過去を有益なものとして受け取ることができる。」

「このような精神においてのみ、つまり、私たち自身を前進させてくれる人間進歩の歴史として、明日の歴史は書かれなければならない、と私は思う。」

「イタリアの戦場で、オーストリア軍を打ち負かして得たナポレオンの勝利は、今日の私たちにとって一体なんの意味がありましょう。彼の帝国はすでに跡形もなく潰え去ってしまったし、彼が征服したオーストリア(オーストリア=ハンガリー帝国)も今はありません。」

「私たちが人生のいかなる時にあっても精神的には進歩しているのであるということを思い出すときにのみ、国々や独裁者たちの馬鹿さかげんをあきらめることができる」

「昨日の歴史が永遠に前科を重ねてきたことの歴史であるならば、明日の歴史は私たちの永遠の向上の歴史、人間の文明の歴史であらねばなりません」

彼にとっては、ヒトラーもナポレオンも馬鹿な独裁者だったのでしょうね。「ジョゼフ・フーシェ」のなかでは、ナポレオンを「戦争屋」と登場人物の口を借りて呼んでいました。

彼もその意味では戦争を肯定する「英雄伝説」の否定論者でした。

歴史というものを長い眼で眺めると、確かに不条理というものは幅を利かし続けることはないということが分かるのですが、逆に健全な進歩も恒常的に続くこともなく、不条理の期間と条理の期間が同じくらいの時間の幅で交互に繰り返されているような気もします。そのような混沌とした時代に孫たちはどう生きて行くのでしょうか。

おじいちゃん自身ですらわからないのにアドバイスもへったくれもありません。

強いてアドバイスするとすれば、「司馬遼太郎と塩野七生の本は興味を持った時でいいからできるだけ読みなさい。映画は興味の湧くものをたくさん観なさい。」くらいでしょうか。

そしてナポレオンに興味をもったら、「君たちはどう生きるか」も読んでみることを勧めてみます。

人間って所詮、聞きたいことしか聞かないし、興味のあることにしか興味をしめさないですからね。

by zoompac | 2018-06-22 05:59 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

第159回直木賞ノミネート作品_7月18日発表!_読みもしていない私の独断と偏見で、本命、湊かなえの「未来」、対抗、木下昌輝の「宇喜多の楽土」そして「穴」が本城 雅人の「傍流の記者」と予想しています!

f0090954_06590898.jpgノミネートされた作品も読まずに顔ぶれから予想をしますと、「イヤミスの女王」湊 かなえが本命でしょうか。

余談ながら、私はイヤミスの意味をずーっと癒しのミステリーの意味に捉えていましたが、この意味が「嫌な気分にさせるミステリー」という意味だと知って腑に落ちた気分になったことを覚えています。映画化作品ともなった彼女の衝撃のデビュー作「告白」から満を持して10年めになる直木賞候補作はイヤミス女王の面目躍如の集大成との謳い文句が宣伝用に添えられていました。

「告白」は、その一部である第一章「聖職者」が小説推理新人賞を受賞しました。そして2008年度の週刊文春ミステリーベスト10で第1位に輝き、2009年春に本屋大賞を受賞するという鳴り物入りぶりを発揮した湊かなえの衝撃的なデビュー作でした。映画化作品での主演「松たかこ」の演技も不気味でかつ衝撃的でした。

あまり好きな分野ではないのですが、「告白」の他数点彼女の小説は読みました。湊かなえの筆力の強さは確かなものであざとささえ感じられる彼女の実力からそろそろ受賞しても驚きません。選考委員の先生がたのお眼鏡にもかなう実力の持ち主湊かなえの「未来」を本命と予想して、7月18日の発表に向けて読み込んでいきたいと思っています。

作風からすると私の好みの窪美澄の「じっと手を見る」も気になるのですが、今回はパスして読みません。島本理生「ファーストラヴ」も気になって仕方ありません。たぶん読む余裕がないと思いますが、オール読物7月号(6月22日発売)の直木賞候補作情報を吟味して読むか読まないか考えてみます。

私の本命予想の湊かなえの「未来」に対する対抗馬とまで確信は持てませんが、私の好きな時代・歴史小説分野ということで、木下昌輝の「宇喜多の楽土」は読むつもりです。関ケ原の西軍の主力として徳川家康を脅かした宇喜多秀家の物語に興味があります。関ケ原で敗れた後も生き延びたってことにも・・・・。

直木賞に対する漠然とした印象ですが、時代・歴史小説のノミネート作品には選考人に浅田次郎、宮城谷昌光、北方健三さん等のお歴々がいながら評価が辛いですね。

今まで伊東潤氏のノミネート作品はほとんど読んでどの作品も一定のレベルだと思ってきたのですがことごとく受賞予想をを外しています。

それは、木下昌輝さんも同様で、2015年の「宇喜多の捨て嫁」等はページの行間から直家の血膿の匂いが立ってくるようでその迫力に圧倒され受賞を確信していました。2017年「敵の名は、宮本武蔵」も「宇喜多の捨て嫁」に比べて書きたいことを盛り込み過ぎたためか散漫な印象をやや残念に思いつつも個人的には好きな作品でした。

「宇喜多の捨て嫁」は高校生直木賞を受賞しています。2014年に始まった高校生直木賞の第一回受賞作品は伊東潤氏の「巨鯨の海」(2013年の直木賞候補作品)です。この「巨鯨の海」も読んだ後受賞を確信した作品でしたが外れました。

単なる一素人の感想ですが、直木賞の選評をされているお歴々よりよほど高校生の目の方が確かであると思えてなりません。選考委員の先生方はプライドや政治的なお付き合いで選眼が曇っているのではないでしょうか?(私の好みが時代・歴史小説に偏っているので贔屓からの僻みです。失礼な言葉をご容赦ください。でも言いたいことなので言わせてもらいました。)

余力があれば、本城 雅人の「傍流の記者」も読んでみたいですね。社会部長の座を巡っての優秀な記者たちの出世レースが描かれているようです。興味を持った理由はいくつかあります。

最近、朝日新聞の名コラムニストで夭折した深代惇郎の半生を描いた「天人_深代惇郎と新聞の時代」を読んだばかりであること、2011年の東北大震災の後の福島原発事故やオリンパスの企業買収疑惑事件について国内のメディアと海外のメディアの報道姿勢に格差があり国内メディアにも隠蔽体質があるのではと疑いを持った経験、そして「大統領の陰謀」や「ペンタゴンペーパーズ」等の映画で描かれた報道人の矜持を描いた作品が日本に少ないこと(その点では、オリンパス事件を扱った「サムライと愚か者」の邦画は印象に残りました。)等です。

出世レースに明け暮れる記者たちが報道人の使命をどう感じているのか、官民合わせて日本の文化とも思える隠蔽体質をどうとらえているのかを知る一助になればと思っています。

第159回直木三十五賞の候補作は以下の6冊です。
候補作(出版社)(著者名アイウエオ順)
上田早夕里『破滅の王』(双葉社)
木下昌輝『宇喜多の楽土』(文藝春秋)
窪美澄『じっと手を見る』(幻冬舎)
島本理生『ファーストラヴ』(文藝春秋)
本城雅人『傍流の記者』(新潮社)
湊かなえ『未来』(双葉社)

by zoompac | 2018-06-21 07:03 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「ジョセフ・フーシェ」シュテファン・ツヴァイク_フランス革命で政敵ロベスピエールを倒し、その後のナポレオンの時代ではナポレオンから最も恐れられた男の生涯

f0090954_15583985.jpgこのジョセフ・フーシェは、敵にもしたくないですし味方につけたくもないですね。できたら関わりたくない人物ですが、自分が功成り名を遂げる出世をしたければこうした権力に鼻の利く人物との付き合いは多かれ少なかれ必要となってくるのかもしれません。

天性の裏切り者、いじましい策謀家、ぬらりくらりした爬虫類的性格、職業的な変節漢、下劣な岡っ引き根性、みじめな背徳者とか軽蔑をこめたありとあらゆる悪口で形容されるジョセフ・フーシェが警察庁長官という権威を被っていたのですから大変です。

去年、元CIAの局員だったエドワード・スノーデンの映画を観ましたが、ありとあらゆる個人情報が権力側にストックされ、その情報が権力側に都合よく操作されるって恐ろしい映画でしたが、そうした手法の原点となるような仕組みを編み出した人がこのジョセフ・フーシェでした。

私が最初にこの本を読んだときは1983年でした。もう35年前です。

今年(2018年)が明治維新から150年ということでNHK大河が「西郷どん」です。ということで司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んでいますが。この「翔ぶが如く」全10巻も実は1983年に読んでいました。

翔ぶが如くの1巻か2巻あたりに司馬遼太郎氏が余談話としてシュテファン・ツヴァイクの名作「ジョゼフ・フーシェ」を紹介していたのです。

奇しくも今回も「翔ぶが如く」を読みながら(現在8巻を読書中)、この「ジョセフ・フーシェ」も再読してしまいました。

司馬遼太郎氏の余談話は次のようになります。

”川路(利良)は、フランスで政治警察を仕入れてきた男である。フランスの警察では、「かつてフランスの警察を擁立したジョゼフ・フーシェこそ、文明社会の警察の聖者というべきである」ということを聞かされ、フーシェについて知識のない川路はその通りに信じた。川路の知らないことであったが、フーシェがヨーロッパの近代史上、信じがたいほどの変節の政治家であり、川路の時代よりずっと後、作家シュテファン・ツヴァイクの名作「ジョゼフ・フーシェ」によってその悪党としての性格と行跡を完膚なきまでに解剖されてしまった人物である。”

さらに司馬遼太郎氏は、バルザックの「暗黒事件」という小説を読んでシュテファン・ツヴァイクが、ジョセフ・フーシェという人物に興味を持ったのだとも書いていました。その「暗黒事件」で特別な光を輝かせたのが皇帝ナポレオンだとすれば、ジョセフ・フーシェはナポレオンの背後から闇を貫くような眼光で歴史を操る人物として描かれていたそうです。

そのフーシェの伝記を書き上げたツヴァイクは感じのよくない主人公を書いたことを悔やみそれまでの文学的成功をフイにしたかもしれないと心配しましたが、作品は重版出来を繰り返しツヴァイクの名声を確かなものにしました。

この「ジョセフ・フーシェ」では、彼が1759年にナントで生まれ、フランスから国外追放処分になり1820年に当時のオーストリア=ハンガリー帝国のトリエステ(今は隣国スロベニアの国境沿いに位置するイタリアのアドリア海を臨む港町)で61歳の生涯を閉じるまでの波乱万丈の時代と彼の生きざまが描かれていました。

彼が生きた時代そのものが動乱でした。大きく分けるとフランス革命の10年(1789年~1799年_ナポレオン・ボナパルトによるクーデターと帝政樹立)と時代は若干被りますが、ナポレオンがパリの街中で大砲をぶっ放して反革命分子を撃破した1795年からセントヘレナで死ぬ前年の1820年までの25年間の”ナポレオンの時代”が彼(フーシェ)の生涯(1759~1820)にすっぽり収まっています。(ナポレオンはフーシェが亡くなった5か月後に死去しました。享年51歳)

その間のフランスの政体ですが、絶対王政、立憲君主制、共和制(含む総裁政府)、執政政府制、帝政へと変遷していきます。

ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの国外逃亡が失敗するまでの1791年までが絶対王政、1792年~1793年が立憲君主制です。

1792年から過激共和派が多数を占める国民公会が成立し、1973年1月にルイ16世が処刑されます。その1793年~1804年を第一共和制と呼びパリ民衆議会の王に同情的だった穏健派のジロンド派が追放され過激なジャコバン派の独裁・恐怖政治が強化されていきます。1793年10月にマリー・アントワネット、1794年4月にはダントンとその一派が処刑されました。

1799年のクーデターからナポレオンは執政政府を樹立しましたが、この年で1789年から始まった10年のフランス革命が終わったとされています。

ナポレオンの時代と呼ばれる25年は1795年から始まります。

先ほど第一共和制を1792年~1804年という括りにしていましたが、厳密にいう共和制は1792年~1794年としたほうがいいかもしれません。1794年以降は、恐怖政治の温床ジャコバンクラブは解体され、王党派が実権を握り、このあたりから当時25歳のナポレオンが台頭してきます。

1794年は共和制の革命政府で政敵を次々に断頭台に送っていた独裁者とも称されたロベスピエールが失脚し処刑されてしまいます。そのときロベスピエールの弟と親しかったナポレオン(当時は有能な少将として売り出し中)も逮捕、収監され失脚してしまいます。

翌1795年には、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こりました。この時に国民公会軍司令官となって旗を振ったのがポール・バラスです。彼は知り合いのナポレオンを副官として登用し、実際の鎮圧作戦をナポレオンに一任しました。ナポレオンは首都の市街地で一般市民に対して大砲を撃つという大胆な戦法をとって反王党派の鎮圧に成功したのです。これによってナポレオンは師団陸将、国内軍副司令官、国内軍司令官へと昇りつめ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとることになりました。

この後1796年にナポレオンはジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しますが、彼女は貴族の未亡人でありバラスの愛人であったことでも有名でした。

この1796年から1799年までバラスを首班(総裁)とする総裁政府が続き、イタリア方面軍の司令官として海外遠征のナポレオンには連戦連勝の活躍がありました。

1799年にはイギリスからの呼びかけで対仏大包囲網が構築され、イタリアをオーストリアに奪い返され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まりました。それを知ったナポレオンはエジプトに展開していた軍を現地に残し、単身フランスに戻り、統領(執政)政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握りました。歓喜で迎えたフランス国民の後押しでナポレオンのクーデターは成功しました。

執政として独裁権を手にしたナポレオンは、1803年に皇帝になりました。1804年~1815年が皇帝ナポレオンによる第一帝政です。1814年にナポレオンは退位しエルバ島に流され、ルイ18世が即位しますが、1815年にナポレオンはエルバ島を脱出しフランスに再上陸しワーテルロー敗戦まで100日天下を築きました。敗戦の結果ナポレオンはセント・ヘレナ島に流されました。一応、1795年からセントヘレナで死ぬ前年の1820年までの25年間の”ナポレオンの時代”と括りました。ナポレオンが島で亡くなったのは1821年5月です。

一方、ジョセフ・フーシェは、1790年にナントの僧院で高等学校の教師をやっていました。1792年に過激共和派が多数を占める国民公会を成立させたとき33歳でしたが議員に選出されました。1793年にジャコバン派の勢い盛んなとき、フーシェはもちろんルイ16世処刑推進派でしたし、政府要員としてリヨンで反革命派の大量処刑を行って頭角を現しました。

1794年には恐怖政治実施に関してロベスピエール一派と対立しジャコバン派を除名されます。逆にそのことが恐怖政治に対する反動でロベスピエールが処刑されたときフーシェの命を救いました。恐怖政治への反動の動きの火の粉はリヨンの虐殺者と異名を取ったフーシェにも降りかかってきたのですが、大虐殺共犯のコローの単独犯として押し切りました。暴君ロベスピエールから睨まれていたことが何よりの追い風になりました。

命は助かったものの追放処分を受けたフーシェを拾ってくれたのは、共和国をルイ18世に売りわたして自らの出世を企んでいた王党派のバラスでした。このときバラスから与えられた仕事がバラスの政敵の弱みを探るスパイでした。そしてその仕事はフーシェの天職となる警察長官へと繋がっていくのです。

彼はそのスパイ目的遂行のための情報網の構築をしました。そして情報を個人的な報復や政治的駆け引きのための毒薬として保管することにいそしむことになりました。ナポレオンの妻ジョセフィーヌもフーシェの手駒のスパイの1人だったというから恐れ入ります。

ナポレオンがエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪により処刑されるリスクを犯してまでフランスに戻ってくることは、当時のバラス総裁政府の中で警察長官を任じられていたフーシェは(ナポレオンからジョセフィーヌに宛てた手紙で)お見通しでした。フーシェはもちろんバラスには報告しません。国民の歓呼の歓迎を受けるナポレオンにバラス総裁政府の情報全般を提供することで1799年のナポレオンのクーデターが成功したのです。

バラスを蹴落としてナポレオンを主人に選んだフーシェですが、こそこそとナポレオンの秘密を嗅ぎまわったりときに越権行為をするため、その後何度か皇帝ナポレオンとの鍔迫り合いのような争いが続きます。ナポレオンの部下として優秀だけど油断できない曲者フーシェは、ナポレオンの元で警察長官の罷免と拝命を3度繰り返しています。優秀だけど不忠実なナポレオンの部下としてはフーシェの他にタレーランがいました。

フーシェとタレーランは互いに無神論者(タレーランはかつて司教でしたがその職を投げ捨て共和制主義者に転向)、日和見主義者(風見鶏)で、決して互いを信用していませんでしたが、ナポレオンの手から権力を取り上げルイ18世を国王に祭り上げる時はタッグを組みました。

ナポレオンと対立し、その敵であったルイ18世の王政復古に協力し、その下でフーシェはは再び天職である警察大臣になりました。しかし彼の節操のなさはどうでしょう、本来の官僚職がそういう性格のものかもしれませんが流されていたナポレオンが島を脱出し、皇帝に復帰するや、その警察大臣にもなるのです。やがてフーシェに見放されたナポレオンの百日天下が終わると、ルイ18世を再度迎え入れ、またしてもその警察大臣に納まりました。

しかし、王政下で、かってルイ16世の処刑に賛成したことを蒸し返されて国外に追放され、その後政治的舞台に近づくことは許されず4年後に61歳で死去しました。

ルイ16世を父にマリー・アントワネットを母とするアングレーム公爵夫人の執拗な復讐心はルイ16世の弟である18世の王家全員の心を動かしました。王に返り咲いた18世は当初フーシェの手腕、経験、情報網によって基盤を固める必要がありましたが、いったんその基盤が落ち着くと、もう一人の変節の旗頭タレーランにフーシェに引導を渡すよう勅命したのです。

フーシェは、トリエステの地で死ぬまで敵対者たちの情報を肌身離さず持ち続けて保身に努めたそうです。死ぬ間際にそれら一切を灰にしました。それを聞いてほっとした当時の政財界の要人が多かったことは容易に想像できます。

フーシェとナポレオンの微妙にして奇妙な関係をツヴァイクは興味深く描いています。

一例を挙げると「ナポレオンは嫌々ながらフーシェを用いたのである。・・・この男は今まで数多くの者をいざという時になって見捨て裏切ってきているからには、それと同じ手で、危急存亡の瞬間に、自分を猫の死骸のようにほったらかして、見殺しにするだろうということが、分かっている。しかし、彼にはこの男が要るのだ――ナポレオンがその天才によってフーシェを魅惑していたと同じに、フーシェが役に立つということが、相変わらずナポレオンにとっては魅力なのだ。・・・なぜなら天才の最も堪えがたい代物は凡庸であるからであって・・・忠実にして無能な人々よりも、むしろこの賢明にして信任しがたい男を用いたのである」。

その言葉を裏付けるエピソード、私の好きなエピソードですが、がありました。

ナポレオンの遠征中に攻め込んできたイギリス軍に対して、留守番の一大臣だったフーシェがナポレオンをはじめ他の大臣の意見も聴かずナポレオンから戒告処分された将軍を登用し国民衛兵を招集しいかにも皇帝代行のような顔をして独断専行でイギリス軍の侵攻を退けたのです。癇癪持ちの皇帝からの大叱責を期待した陸軍大臣をはじめとする他の大臣はナポレオンから逆に無為無策を叱られフーシェに対する擁護を聴かされるはめになる顛末が紹介されていました。

ナポレオンに恐れられた男として面目躍如のエピソードでした。

フーシェがナポレオンから罷免されるときが何度かありましたが、その度にナポレオンはフーシェが変な気を起こさないよう最大の配慮を怠りませんでした。たとえば、フーシェが握った情報を使ってナポレオン政府を混乱に陥れることなどをしないよう、彼にオラント公爵という貴族の称号を与えなおかつお金に不自由しないよう手配をしていました。

by zoompac | 2018-06-18 09:41 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「乱読のセレンディピティ」外山滋比古_偶然の発見、それとも出会いを提供してくれる読書

f0090954_15582919.jpg2018年6月になって日経新聞に作家の阿刀田高さんが「私の履歴書」を書いていらっしゃいます。

その第12回に、小説を書くためのアイディア発見の備忘録ノートなるものを紹介されていました。

生活のなかでアイディアのかけらを探すことを心掛け、思いついたことはとにかくメモにされるのです。

これを怠ると、いいことを思いついたという記憶だけ残り、その内容が思い出せないため、釣り落した魚(アイディア)を悔やむことになるのだそうです。

断片的な一行でもメモにし、そのメモを整理し備忘録に書き残します。

そうした作業を通じて、「セレンディピティ」という言葉に出会われたと書いていました。

辞書を引くと「発見上手」という訳がついています。少し詳しく言えばなにかを熱心に探し続けているとそれとは関わりなく特別に素晴らしいものを発見するという意味です。

科学上の発見ではないがと断りを入れて、コロンブスがインドだと思ってアメリカを発見したこともセレンディピティだったのではないかと言っていました。

そして自分のアイディアの断片を書き残した備忘録はまさにそうしたさまざまなセレンディピティ(思いがけない発見)を提供してくれたということでした。

外山滋比古氏によると、セレンディップというのは後のセイロン、今のスリランカの事で、そのセレンディップの3人の王子が、絶えずものを見失って、それを探すのだけど、探すものは見つからずに、思いがけなかったものが飛び出してくるというお話から、セレンディピテイが思いがけないものを発見する能力という意味になったようです。

ペニシリンの発見も偶然による思いがけない発見という意味ではセレンディピティなのでしょうね。

イギリスのフレミングが1928年ブドウ球菌の培養中、偶然アオカビを混入したところその周りのブドウ球菌が消滅したことからアオカビの抗菌性を発見したのです。ペニシリン発見のおかげで一頃不治の病とされた肺結核で亡くなる人が劇的に減少しました。

私にとっての読書は、一冊一冊は単独なのですが、本と本の間にあまり間を置かず連続で何冊も読んでいると、そうした継続性の中から繋がって読み取れる発見があり、その発見が次の読書のターゲットを絞り込んでいくようなときがあります。断片的な読書に流れが出てきて以前読んで得た知識が視野を広げてくれるように感じられるのです。私にとっては「出会い」ともいえるセレンディピティの瞬間です。

外山氏は、アメリカ人の「セレンディピティ」好きの例として、通りの名前や喫茶店の名に「セレンディピティ」を適用していることを挙げていました。

そういえば、2001年のニューヨークを舞台に偶然出会った男女の恋の次第を描くハートウォーミングなラヴ・ストーリー映画でその名もずばり「セレンディピティ」という作品を観たことがありました。

ジョン・キューザックが主演でした。クリスマス5日前のニューヨークのデパートで、一組しかない黒いカシミアの手袋を取り合うことで知り合ったジョナサン(ジョン・キューザック)と、英国女性サラ(ケイト・ベッキンセール)は、スケートリンク等で楽しくロマンティックなひとときを過ごします。

そして別れを惜しむジョナサンに、サラはある提案をします。ジョナサンは5ドル札に、サラは持っていた本に連絡先を書き、お金は使い、本は古本屋に売ります。そしていつの日かその連絡先を見つけることができたなら、運命の扉は開くであろうと予言したのです。そのとき二人が入っていたカフェの名が「セレンディピティ」だったように記憶しています。

彼らが再会するのは数年後です。ジョナサンはサラの連絡先が書かれた本を見つけ、サラも、ジョナサンの5ドル札を発見し、二人が思い出のスケートリンクで偶然再会するって話でした。確かサラの他の男の人との結婚式当日の出来事として緊迫感をもった描かれ方をしてました。

私が「セレンディピティ」という言葉を「偶然の発見」というより「偶然の出会い」と捉えるのは、この映画の影響が強いからだと思っています。

私にとって、読書や映画鑑賞を通じて「偶然の発見」や「偶然の出会い」をこのブログに書きとどめることが阿刀田さんが実践されている備忘録ノートのようなものかもしれません。


by zoompac | 2018-06-15 05:53 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)

読書「大地1巻」パール・バック_貧農の王龍が奴隷女と結婚して大金持ちになるまでの波乱万丈の物語_その奴隷だった糟糠の妻・阿蘭こそが王龍一家にとって福の神!

f0090954_07541749.jpgパール・バックは1892年アメリカのバージニア生まれの小説家です。生後3ヶ月で母と中国で宣教師として活動していたの父親の元に引き取られました。中国名も持ち、乳母も中国人、英語よりも先に中国語を話したパールは幼い頃は自らを中国人だと思っていたそうです。大学で学ぶためアメリカに帰国しますが、卒業後は中国へ戻り教鞭を取り、本格的な執筆活動も中国で行いました。

1931年の「大地」が大ヒットし、翌年にはピューリッツァー賞、数年後にはノーベル文学賞が送られました。アメリカ人ですが、中国で育った彼女ならではの視点から綴った物語で不自然さがなく深い洞察力を感じます。

時代背景は、太平天国の乱が起こる1850年くらいから、辛亥革命(1911~1912年)の後あたりまでだと思われます。

山崎豊子も中国の残留孤児を題材に「大地の子」という小説を書いています。私の勝手な想像ですが、山崎豊子の学生時代の愛読書の1つがパール・バックの「大地」であったことから、「大地の子」はパール・バックの「大地」から連想されたタイトルなのではないでしょうか。

さて、お話ですが、具体的な地名も時代説明もありません。歴史小説好きな私としてはちょっと残念でしたが、物語の展開のテンポがリズミカルで面白く読めました。

ただモデルとされた場所はわかっています。夫で農業研究者のジョン・パックとパール・バックが一緒に住んでいた中国安徽省の宿州のようです。彼女の居住後には、「大地」が書かれた場所としてかその付近が小説の舞台とされたからか、おそらく両方でしょうが、パール・バックの像が飾られているようです。夫の仕事を通じて中国現地の農業問題に精通していたのですね。そうした経験と知識は見事にこの作品「大地」で実を結んでいます。

王龍(ワンロン)が結婚するところから始まります。黄(ホワン)家という大金持ちのお屋敷の奴隷女をもらうんです。(当時の中国ではそういう風習が普通にあったようです。)不通に貧しい農民の王龍にはまともな結婚相手がいないんです。若くて美しい女だと、若旦那などの慰みものになってしまっているので、あえて若くも綺麗でもない奴隷女を頼みます。そうして結婚したのが阿蘭(アーラン)でした。

贅沢はいわない王龍ですが、がっかりしたことが1つありました。阿蘭の足が大きかったことです。この頃の清朝では、女の子は小さいうちから纏足(てんそく)をする風習があり、奴隷女ですから纏足はあり得ないのですが、足は小さいほど品があるというか美人とされていたようです。

ただこの阿蘭はとんだ拾い物でした。王龍がどの程度認識できていたかわかりませんが、岡目八目の私にはわかります。結果から申しますと「福の神」でした。貧農の王家の繁栄を下支えしたのは彼女でした。

後々、お金持ちになった王龍が第二夫人を持つことになります。阿蘭はこのとき、三人の男の子、白痴の長女、男女の双生児を生んでいましたが、その末っ子に纏足を施していました。

「纏足しないと、お母さんがお父さん(王龍)にかわいがられないように、お前(末娘)もお嫁に行ったとき、可愛がられなくなるからね」というのが口癖だったようで、それを娘から聞いた王龍が、阿蘭が彼にとって最初の女であり、どれほど忠実だったかを思いめぐらすシーンがありました。

確かに嫁に来た阿蘭は若くも美しくもなく足も大きいのですが、奥さんとしては相当いいです。お屋敷でいろいろ経験している上、元々奴隷として売られるほどの貧しい生活にも慣れていますから、家事全般の切り盛りに無駄がないのです。妊娠していてもいざという時まで働いて、誰の手も借りずにたった1人で子供を出産すると、またすぐ畑を耕すのを手伝います。すごい生命力と生活力の持ち主です。

ちょっと、的外れかもしれませんが、第一部「大地」の私のイメージは、落語の「芝浜」でした。波乱万丈の物語で落語ほど単純に片づけられませんが、根幹は内助の功によって夫婦が謙虚で勤勉な生活を過ごすうちにお金が貯まり貧乏暮らしから抜け出せるって噺でした。

奥さんの働きによって夫が出世するという話では司馬遼太郎が「功名が辻」で描いた「山内一豊の妻」のお千代が有名ですが、お千代に比べてこの阿蘭が大いに勝るところは、ほとんど喋らなくて黙々と働くところです。愛嬌もありませんがでしゃばることもなく分をわきまえています。

元々王龍も向上心があり勤勉です。長男、次男と子宝にも恵まれいっそうの励みになります。妻も質素には慣れており働き者です。少しづつ貯めたお金で、贅沢しすぎてお金が不足気味となった地主の黄家から少しづつ土地を買い増していきます。この二人にとっては黄家から土地を買うというのが何よりの生きる励みになっていたようです。

しかし、いいことは長続きしません。降るべき雨が降らず、王龍が暮らす地方一体は大干ばつに襲われ大飢饉を経験します。

食べものを求めて父と男の子2人、娘1人を連れて南へ行く決心をしますが、阿蘭の強い意志もあって土地は売りませんでした。

移動した南の地では阿蘭にはどうやらその経験があったらしいのですが父と子供を連れて乞食をします。王龍は車引きです。生活は最低ですが食べものが豊富な南では金持ち達が難民救済所の食事のようなものを施してくれていて何とか食つなぐことはできました。

王龍にとっては初めての経験でしたが、こうした経験を積んだことのあるらしい阿蘭の落着きが頼もしく感じられる生活が続きます。

そうこうしているうちに、太平天国の乱だと思うのですが、この地方に戦火が及ぶようになり、その混乱に乗じて王龍は富豪の家から沢山の銀貨を入手することに成功します。ここでも阿蘭の嗅覚が働き、王龍のせしめた銀貨の他に阿蘭もちゃっかり宝石の類を手にしました。

金を手にした王龍らは北の自分たちの土地に戻ります。この場面は読んでいて「風と共に去りぬ」を思い出しました。戦火の中を立ち尽くす女主人公が、自分の生まれ育ったタラの土地へ戻ろうと決心するがのごとく、王龍と阿蘭には戻る土地がありました。

一家が戻ったとき家は空き巣の好き放題に荒らされていましたが、土地は当然のことながらしっかり残っていました。

南で棚ぼたのようにして得た金で、あばら家を整え、種や農具を買い、再び農民としての生活を始めました。土地もさらに買いましていき、小作農も多く雇いました。近所にいた陳という勤勉な男が信用できることから小作農頭として目を配ってもらう体制も構築しました。

金が貯まってくると土地を買い続け、やがて零落した黄家の邸宅までも買い取るまでになります。

お金はあるけど字が読めない自分に対する反動から、新たに生まれた三男を除いて長男と次男には農業をやらさず学問をさせることにしました。子どもはさらに男女の双子が生まれています。

南へ放浪したとき、北へ帰る旅費を捻出するために売ろうかどうしょうか迷った長女は口が利けませんでした。後でわかったのですが知的障害を抱えていました。結局、太平天国の乱と思われる大混乱の中で思わぬ金銀宝石を手にしたため長女は共に帰郷を果たします。

実はパール・S・バックの娘も知的障害者でした。王龍は非常にこの娘を可愛がり、使用人に「私が死んだらこの子はどうなるのか? 私はこの子の将来が恐ろしい、しかし自分の手で殺すのももっと恐ろしい」という趣旨のことを話すシーンがあります。パール・S・バックは自らを王龍に見立てて自分の心配していることを語ったのではないでしょうか。

この頃、王龍には男孫11人、女孫8人いました。糟糠の妻・阿蘭も亡くなり、その阿蘭には面白くなかったでしょうが、質素な阿蘭が肌身離さず持っていた唯一の贅沢である真珠を取り上げてプレゼントしたほど熱を上げた第二夫人の蓮華も太ってみにくくなってしまっていました。

その蓮華に仕えていた小女の梨花(ホウカ)に王龍は手を付けてしまうのですが、彼女から白痴の娘の面倒をいつまでもみると言われて彼は心から梨花の言葉を有難く思うのでした。

一方で、三男は家を出て軍に入隊し、家にいる長男と次男は農業には全く興味はなくすっかり老衰した王龍亡き後、土地を売る相談をしているところでこの第1巻が終わっていました。

by zoompac | 2018-06-11 07:58 | 読書・映画・音楽 | Comments(0)
RELEASE INFORMATION NEW ALBUM

[通常盤]「Now On Sale!!」
TOCP-66380/¥2,548(税込)

[DVD付 初回生産限定盤]
「Now On Sale!!」
TOCP-66381/¥3,500(税込)

NEW SINGLE
WMP HIGH LOW
REAL HIGH LOW
OFFICIAL SITE
海外オフィシャルサイト
http://www.gorillaz.com/
日本オフィシャルサイト
(PC&携帯共通)
http://toemi.jp/gorillaz/
excite MUSIC