
応仁の乱は”人の世空しい”応仁元年(1467)から 文明 九年(1477)まで11年にわたって繰り広げられた内乱です。
室町幕府管領家の畠山氏、斯波氏の家督争いから、細川勝元と山名宗全の勢力争いに発展し、室町幕府8代将軍足利義政の継嗣争いも加わって、ほぼ全国に争いが拡大しました。
明応2年(1493年)の明応の政変と並んで戦国時代移行の原因とされています。
ちなみに、明応の政変は、細川政元が起こした室町幕府における将軍の擁廃立事件のことです。将軍の家来であるはずの武士が将軍の首をすげかえたのですから、一種のクーデターです。
呉座勇一氏の「応仁の乱」は、複雑に利害の絡み合う武家集団が二分され京都を中心に戦乱が展開していった応仁の乱を奈良の興福寺の二人の別当の日記を通じて描いていました。
元々、藤原家の氏寺として栄えてきた興福寺は、平城京遷都に伴い藤原京の近くから今の春日大社の近くに移され建立されました。興福寺生え抜き組の反発もありましたが、やがて藤原摂関家の子弟が別当(興福寺のトップ)を務めまることになっていきます。藤原摂関家の血縁人事です。
1180年には、平家との対立から、平清盛の五男である平重衡 が 南都(奈良)焼き討ちを行い、 興福寺・東大寺がほぼ全焼する大事件が起こりました。
存亡急を要す事態でしたが、当時の興福寺別当の信円の奔走により、同寺は再建されました。藤原家の底力恐るべしです。鎌倉幕府成立後も、大和国(現在の奈良県)には守護は設置されず、 興福寺が事実上の大和守護として君臨していきました。
ただ摂関家の分裂で、摂関家は 近衛家と 九条家に分裂していきます。信円が保有していた 興福寺の大乗院・一乗院の両院が争奪の対象となり、 紆余曲折を経て、近衛家は一乗院に、九条家は大乗院に子弟を送り込むという棲み分けとなっていきます。
なお、1300年の名門藤原家は、近衛家からさらに 鷹司家が分立し、九条家から一条家と二条家が分かれたため、いわゆる「五摂家」となっていくのですが、のちにはこれらの家からも一乗院と大乗院に子弟を送り込んでいくことになります。
経覚の父は関白九条経教です。17歳で大乗院門跡になった超エリートです。興福寺別当である寺務大僧正を4度務めたことで有名です。経覚の後、大乗院に入り興福寺の別当、大乗院の門跡となった尋尊の父は一条兼良です。尋尊は経覚より35年後に生まれています。
二人とも応仁の乱と同時代を生きながら、後の時代から考証しても複雑怪奇な応仁の乱を様々に予想はするのですが、結構デマや噂に振り回されているところが逆にリアルで面白いと感じました。京都を中心に展開された戦は、奈良を含む大和地方にも度々飛び火してきます。勝ったのか負けたのかよくわからないまま戦い疲れして休戦になってはまた戦になることが繰り返されていきます。
応仁の乱を契機に延々と続いてきた京都を中心としてきた政治体制や政治秩序が崩壊していく様もよく描けていました。いわゆる戦国大名が各地に出現し、地方から群雄割拠の時代が始まっていきます。
たとえば、応仁の乱の折、東軍の頭となった、細川管領 家 は最大の実力をもち、事実上、天下を治めていたといっても過言ではないと思います。
しかし凡庸な当主が相次ぎ、しだいに勢いがおとろえてくるとともに、その家老の 三好 氏が勢力をのばしてきました。
阿波は、細川家の領国です。その阿波の地を基盤とした三好氏は、細川家の家僕となりました。しだいに勢いを得たのは、細川の当主が、多くは京にいて領国の政治をかえりみなかったからです。
主家をしのぐほどになり、ついには京にのぼって、二条に第館を建て、将軍家・細川家の家政を代行し、京の警察力も掌握していきます。
そのときの当主は三好喜雲 という者で、有名な三好長慶の父にあたります。
その三好家の家老が安田主水で、その安田家の家老が、松永国松、後に松永弾正と名乗る男でした。
ただしくは、松永弾正少弼久秀です。
のち京に威をふるい、将軍 義輝を殺したり、南蛮寺を焼いて宣教師を追放したり、さらには主筋の三好党と大和で戦い、大仏殿を焼き、ついで大和の国主となり、信長に降伏し、のち信長にそむき、ついには戦国の孤児のようになって居城信貴山城に信長の攻撃をうけ城を焼いて自殺する男です。
この松永弾正少弼久秀の大仏殿焼き討ちの被害は、興福寺には及びませんでしたが、1868年の明治維新の折の廃仏毀釈で、興福寺は一時廃寺同然となりました。興福寺別当だった一乗院および大乗院の門主もそのときは還俗したそうです。
トランプ政権、ヨーロッパの状況、ウクライナ紛争等、混沌として不透明な時代に、デマや噂に一喜一憂する経覚や尋尊と自分自身が重なって見えた読書でした。
勝ち負けのはっきりしない戦が続いては、休戦状態となり、また戦という「応仁の乱」状態の方が、平和が続くことより、認めることはつらいですがより自然な常態なのかもしれません。歴史を学べば学ぶほど、そう思えてきます。