「運命の出会い」というものが、(運を)持っている人にはあるのですね。映画では何度もリメイクされている「スター誕生」のシンデレラ・ストーリーが原節子にもありました。
1936年、節子が15歳の時、小津安二郎と親交のあった山中貞雄監督の「河内山宗俊」の端役に新人女優として出演し、京都で撮影をしていたとき、たまたま見学に来ていたドイツ人監督のアーノルド・ファンク監督の目に留まったのです。
アーノルド・ファンク監督は、ハリウッドでも知られたドイツの巨匠で、日本を題材とする映画を日本で撮るために来日していたのです。
表向きにはおくびにも出しませんでしたが、実のところはナチスの出資による「プロパガンダ映画」の作成のためでした。日独軍事同盟を結ぶに先立って、ドイツ人が日本を理解し親密性を増す意図を持った映画だったのです。ゲッペルズ宣伝相が多いに関わっていました。
ファンクもそうですが、第一次大戦以後は、ドイツを目の敵にするアメリカのハリウッドからドイツ人の多くが締め出されました。
極悪非道のドイツ人を描いた映画を多く輩出するハリウッドに対抗して、ナチスの前のワイマール共和国の時代に、ポツダム(ベルリンから30㎞南西)に巨大な映画製作会社「ウーファ」が設立されました。
日本に無条件降伏を求める宣言で記憶に残ることになったポツダムですが、当時はハリウッドに張り合う欧州映画の一大拠点として有名でした。
余談ながら、深緑野分の「ベルリンは晴れているか」という小説の一舞台として、このポツダムの「ウーファ」が登場しています。
映画産業にはハリウッド、ポツダムを問わず何故か多くのユダヤ人も働いていました。ナチスが政権を取ると、多くの優れたユダヤ人がドイツの映画界から追放されハリウッドに移っていったのです。その結果、ますます多くの反ナチス、反日のプロパガンダ映画がハリウッドから発信されることになっていくのです。
それに対抗してということでもないのでしょうが、ナチスのゲッペルズ宣伝相は親日映画の作成をアーノルド・ファンクに依頼し、ファンクはその映画の主演女優を捜しに来日していたのです。
日本側の映画制作関係者はベテランの田中絹代を強く推しましたが、ファンクは映画界でもまだ無名の原節子を大抜擢したのです。
こうして邦画名「新しい土(洋画名・侍の娘)」が作成され、興行挨拶のため、原節子はベルリン、パリ、ロスアンゼルス(ハリウッド)の世界周遊の旅を若干16歳で行い、日本女優として華々しいデビューを飾りました。
ドイツのプロパガンダ映画で映画界に颯爽とデビューした原節子でしたが、戦争中は日本の兵隊を鼓舞する「戦意高揚映画」に出演し、やがて戦後になります。原節子は25歳になっていました。
黒澤明の「わが青春に悔いなし」、吉村公三郎「安城家の舞踏会」、木下恵介の「お嬢さん乾杯!」、今井正の「青い山脈」等のヒロイン役として快進撃を続け、小津安二郎の”紀子”三部作の皮切りの「晩春」に出演し評判をとりました。沸騰中の節子の人気と相まって、小津の名声もこの作品から始まりました。
時代はGHQ占領時代です。戦後の日本においての映画興行の発展もGHQの民主化政策としての後押しが大きく寄与していました。そんな時代に節子はまばゆい輝きを放っていたのです。
ただGHQの慰問などにいそしむ高峰秀子等とは違って、プライベートでは原節子は毅然としてGHQとの関わりは避けていました。
黒澤明は原節子にはまだ俳優としての根性が座っていないとの不満がありました。
黒澤はなんとしても「ある作品」に彼女を使って彼女の殻を破ってみたいと思っていました。原節子も黒澤明のその作品に出て彼の指導を受けたい気持ちがありましたが、義兄の熊谷久虎が原節子のイメージが崩れるとして反対したためその話は流れてしまいました。
それが京マチ子が主演でイタリアのヴェネツィア国際映画祭でグランプリに輝いた「羅生門」でした。日本映画が世界で初めて栄誉を手にした記念すべき作品となったのです。
そういう意味では、京マチ子も運命的な作品に恵まれる(運を)持っている人でした。
その後の節子は、小津安二郎の「麦秋」「東京物語」等に出演しました。東京物語は1953年の作品です。節子が33歳の年でした。
このとき小津と結婚するのではないかとの噂も立っていたようです。しかし著者の石井妙子は小津にはこのとき大船撮影書の専属楽団員として働く戦争未亡人と交際していたとし、その噂は事実ではないと否定しています。(P.308 )
その後節子は病を得、白内障も煩い、結果として小津作品の主人公・紀子のイメージを崩さないまま映画界を突然引退してしまいます。経済白書で「もはや戦後ではない」と書かれた1961年から1962年のことです。
石井妙子のこのあたりのことに関する文章が見事です。
「原節子は戦後の日本人を、その美しさで照らし、慰め、導いてきた。人々は原節子が演じるヒロインのなかに社会が求める価値観を見出し、進むべき方向を知り、戦後を生きた。そして、戦後が終わったとき、原節子の時代も終わった。人々は節子への関心を失った。復興から経済成長へ。世の中は東京五輪に向けて動こうとしていた。浮つく世の中は節子がいなくなったことにも、当初、気づかなかった。」
原節子は戦後70年にあたる2015年の終戦の日を見届けて、95年の人生の幕を引きました。
余談ながら、京マチ子は今年(2019年)の5月に、原節子と同じく95年の人生に終止符を打っています。