奏でる物語の律から逸脱して人名の備忘録のような無味乾燥な枝葉末節に、読書の興味を失いかけた三巻でしたが、この四巻は打って変わって宮城谷節が静謐な筆に乗っていつものリズムを取り戻してくれていました。
後漢王朝が黄巾の乱で権威を地に墜とす一方、各地の豪族は私兵を蓄え独立し、群雄割拠の戦国時代の様相を濃くします。
西暦189年に皇帝霊帝が亡くなると、皇太后可何氏の産んだ太子劉弁が即位(少帝)しました。
外戚(皇太后の兄)となる何進が侍中として権力を手中にしますが、その前に霊帝の後継者争いで、他の側室が生んだ陳留王を推す宦官との間で主導権争いが起きていました。
河北出身の名門官僚・袁紹の勧めもあって、何進は宦官の撲滅を画策しますが、宦官に逆に殺されてしまいました。
何進殺害のすぐ後、手兵を連れて後宮に踏み込んで、宦官殺戮の惨劇をやってのけたのが袁紹とその従兄弟の袁術でした。
14歳の少帝と9歳の陳留王が、一部の宦官によって宮中から逃亡しますが、その二人を確保したのは、何進の宦官誅滅の呼びかけに洛陽の近郊に兵を進めていた董卓でした。
董卓は皇帝を守護してやすやすと洛陽に入ると、たちまち洛陽の主として君臨することになりました。
袁紹による宦官撲滅騒動のどさくさにまぎれて、なんなく洛陽を占拠した董卓は、さっそく少帝を廃して弟の陳留王を献帝として即位させました。これも西暦189年のことです。
この献帝が後漢王朝最後の皇帝です。
献帝の不幸の始まりは、董卓の力で帝位についたことにありました。
董卓によって洛陽から強引に廃墟に等しい長安に連れ出され、その後も命の危険にもさらされる苦難を経験します。
袁紹をはじめ、多くの反董卓勢力は、董卓によって立てられたこの皇帝を正当なものとして認めようとしなかったのです。
他の天子を立てようとしたり、袁術や袁紹のように自らが帝位に就こうと画策したりしました。
董卓亡き後ますます混迷をふかめる動乱期に、この苦難の多かった献帝を庇護したのが曹操でした。
イメージは日本の幕末に似ています。錦の御旗を立てた薩長が官軍になったように、曹操は天子を自分の懐に納めることによって「正当性」を手に入れたのです。
献帝をいだいている「曹操軍」は「官軍」となり、敵は「賊軍」になったのです。
天子を抱え、王朝を運営するようになった曹操は、組織面でも大きな飛躍をみせます。適材適所の人材登用と人材活用の循環が生まれてきました。
結局、献帝は曹操の死後、その息子、曹丕(魏の文帝)に帝位を禅譲します。西暦220年のことです。189年から220年の31年に渡って帝位にあった献帝は織田信長の時代にあった最後の室町将軍足利義昭(将軍在位20年)のように実権のない象徴(傀儡)にすぎませんでした。劉備に詔を下して曹操を殺そうとしたことも、義昭が反信長勢力を結集しようと画策したことに似ています。
ここにおいて後漢が滅亡するのですが、献帝自身は、それから十数年、袁紹、曹操はもちろん、劉備よりも後まで生きました。
歴史でいう魏・呉・蜀の三国がそれぞれ皇帝を立てて覇を競った三国時代は、後漢の最後の皇帝・献帝が魏の文帝に位を譲った220年から、魏の曹家から帝位が晋の司馬家に移り、呉も滅ぶ280年までの60年にすぎません。
乱世の梟雄と呼ばれた曹操が三国志・正史の主人公であることを考えると、その舞台はほとんど後漢末期だったのです。
四巻では、西暦192年から195年あたりまでが描かれていました。
192年は董卓が呂布に殺され、孫堅も戦死します。
一方、曹操は青洲の黄巾を撃破し30余万人の降服兵を獲得し一挙に兵力強化を図ります。屯田制等の施策で黄巾族に加わっていた流民を定住させ農産を高めました。兵士だけでなく庶民も取り込み、曹操の覇業の基礎となる富強をこのとき築いたと言っても過言ではないでしょう。並々ならぬ行政手腕の萌芽がみてとれます。
曹操の悪名を高めた事件の事も描かれていました。曹操は父と弟を陶謙の配下に殺されてしまいます。その仇を討つため大軍を率いた曹操は陶謙のいる徐州を攻めました。陶謙を討ちそこないますが、兵だけではなく武器をもたない州の民までを多く殺しました。死体によって川の流れが止まったほどでした。曹操は徐州の民の仇となりました。信長の比叡山の焼き討ちが彷彿させられます。
曹操が献帝を保護し後見人として台頭する196年からの物語は5巻に続きます。