この24巻には「近江散歩」も入っているのですが、とりあえず読んだのは「奈良散歩」だけです。
司馬遼太郎氏が、二月堂の界隈にある下ノ茶屋の屋根に瓦焼きの小さな鍾馗さんを見つけて、その話に及びます。
ある夜、唐の玄宗皇帝が病を得て寝ていると夢にいっぴきの小鬼があらわれます。正体をたずねると病の鬼だといいます。玄宗が宿直を呼ぶと、大鬼があらわれ、小鬼をかみ殺してしまいます。大鬼の正体をたずねると進士鍾馗と名乗ります。科挙の試験に応じて合格せず、御殿の階をつかんで死んだというのです。
道教では(日本の神道もその影響を受けていますが)生前、志を遂げずに死んだ者は恨みを残すのだそうです。
玄宗は、彼の死を憐れみ、死骸に緑袍を着せて葬ってやりました。鍾馗はそれを恩に感じ、世の魔物を除くべく志すことを言上し、やがて消えました。同時に玄宗の病も言えたそうです。
以後、唐においては門前に鍾馗像を描いて魔除けにすることが流行したそうです。
東大寺は遣唐使帰りのいわば溜まり場でしたので、先進国唐で流行する魔除けが、屋根に鍾馗を置くという伝承になったのではないかと想像力豊かに書いていました。
さらに、「奈良が大いなるまちであるのは、草木から建造物にいたるまで、それらが 保たれているということである。世界じゅうの国々で、千年、五百年単位の古さの木造建築が、奈良ほど密集してれているところはない。奇蹟といえるのではないか」と言葉を加え、唐の都長安(今の西安)のことに言及します。
その西安(昔の長安)には、大唐を偲ぶものとして、大雁塔・小雁塔が残されているだけで、その他、大唐の栄をしのぶ建造物はなにもないと言うのです。
「むしろ長安は奈良にある」ということを、唐招提寺の金堂や講堂を眺めながら司馬氏が思ったという下りが強烈に印象に残りました。
私が訪れた7月の奈良は、中国人をはじめとして多くの外国人観光客で溢れかえっていましたが、中国人観光客の中に古都長安を偲んで来られている方々もいるとすれば嬉しいですね。
司馬氏は「奈良はある意味では、長安の都が冷凍保存された存在だともいえる」とまとめていました。
奈良朝の建築物は唐から学んだものと思われます。しかし、唐代にも日本の仏教建築の重要な特徴である木造五重塔のようなものは存在しなかったはずだとも言っています。
それ以前の飛鳥時代となると、唐からじかに学ぶ条件が十分でなかったようです。しかし手近な朝鮮に輝かしい技術があり、渡来工人たちが造塔造仏をしたようです。
中国にも朝鮮にもない日本独自の木造の五重塔(法隆寺の五重塔等)を建てたのは百済系の技術者ともいわれていますが、薬師寺の五重塔はあきらかに大陸系の技術の影響を受けているようです。大陸で学んだ技術者が関わっていると言っていました。
いずれにせよ日本古来の木を扱う人たちの技術と経験なども融合され、日本独自の五重塔という建築様式が生まれたのではないかとを語っている箇所は非常に興味深かったです。
新技術を取り入れながら創意工夫をし日本独自のモノを創り出すルーツがこの日本独自の形式としての五重塔にあるとしたらそれはロマンですね。
そういう点では、奈良は長安の面影を残しつつもやはり日本独自の文化の継承の足跡を残した日本の古都といえそうです。
そもそも国宝とされている大小様々な奈良の仏像もそもそも仏教本来の教義ではむしろ禁じられているほどです。司馬氏はヘレニズム文化の影響を挙げられていましたが、シルクロードの東端としての当時の国際都市奈良に唐や新羅、さらにはペルシアあたりからもいろいろな建築様式や技術が入ってきてそれに日本独自の木造建築や木造の仏像作製の技術と融合したと想像すれば楽しいですね。興福寺に祭られている阿修羅像のなんと端正であることか! あの愁眉がたまりませんね。
その興福寺に関する司馬氏の記述も面白かったです。
藤原氏の氏寺だった興福寺が明治維新の廃仏毀釈前はまことに広大な境内を持っていて、奈良ホテルはもちろん、料亭旅館の菊水楼やこれまた料理旅館として有名な「江戸三」等が所在する奈良公園までもがその境内に含まれていたそうです。
鎌倉期までの日本政治史は、藤原氏の家族史でもあり、権力と富はこの一門に集まりました。興福寺の大檀那が藤原氏であり、その藤原氏の氏寺である以上、平安期いっぱい興福寺には荘園が寄進され続け、その荘園は大和地方に集中したものと思われます。その経済力は、僧兵を擁し、中央から地方長官として大和国の国司がきても相手にせず大和一国を私領化していました。平安後期のことです。
頼朝が鎌倉幕府を興した時も、大和における興福寺の勢力に手がつけられず、頼朝は妥協し、興福寺をもって「大和守護職」とし、そこは武家不入の地とされました。室町・戦国の時代には興福寺の僧兵だった筒井順慶(1549~1584)が大名になったほどでした。
織田・豊臣政権で興福寺は大きく寺領を削られましたが、江戸期の幕府はそれでも2万余石を与えました。
明治になって廃仏毀釈が決まり興福寺の僧たちは争って同じ藤原氏の氏神であった春日大社の神官に転職したそうです。
興福寺は廃仏毀釈後一時廃墟のようになったと言われています。今の国宝五重塔も二束三文で売りに出されたが誰も買わなかったとか、それで処分に困って焼かれようとされたと聞いています。
藤原家末裔の興福寺の僧達の狼狽ぶりが歴史に残ってしまいましたね。
司馬氏はまことに厳しく言っています。明治初年、旧興福寺の僧徒が、真に仏教徒であったら、戦国期、織田信長に対して抵抗した一向一揆のように、明治の 太政官政権に抵抗することもできたはずであると。
旧興福寺(廃仏毀釈前の興福寺)の欠陥はこの巨刹を構成していた塔頭院のぬしがことごとく京の公家(藤原氏)の子であったことでした。平安時代から明治維新まで1000年余りに渡って興福寺は京の藤原公家の出店でした。
明治維新の廃仏毀釈の決定に、仏教の権威、信仰も投げ出して興福寺を捨ててしまいました。僧をやめ神職にならねば禄も位も失うという焦りの中でパニック状態に陥ったようです。
興福寺は法相宗ですが、司馬氏は「千数百年の法相学は、反故のように捨てられた」と冷たく言い放っていました。
今月初めに奈良見物に出かけましたが、そういう藤原氏の1000年の歴史を俯瞰した視線で眺める興福寺の五重塔の美しさには背負った歴史の重みが頭に入っていたためかそこはかとない悲哀を感じました。
今、700年の歴史を持つヨーロッパの「ハプスブルク家」の本を読んでいますが、続いてこの1000年の歴史を持つ「藤原家」の本も読んでみたいと思っています。