この3~5巻のハンニバル戦記(上中下)は圧巻でした。
3巻(ハンニバル戦記上巻)では、ローマの勝利に終わったBC264年から23年にわたる第一次ポエニ戦役と、BC218年に始まるその次の第二ポエニ戦役までの23年間の計46年間のことがハンニバルのお父さんの物語として書かれていました。
そして、4巻(ハンニバル戦記中巻)でいよいよ戦の天才ハンニバルの登場です。
紀元前218年の5月、29歳のハンニバルは、準備した全軍を率いてカルタヘーナを出発しました。
「後世に生きる私たちは、あの時点ではハンニバルだけしか知っていなかったことを知っている。ハンニバルとその軍はエブロ河を北に渡り、ピレーネー山脈を越えて現フランスであるガリアに入り、ローヌ川を渡ることでフランスを横断し、アルプスを越えてイタリアに進攻したことを知っている。大軍を率いて象まで連れてアルプスを越えたハンニバルこそ、その後の2200年、歴史に興味を持たない人でも話に聴いている有名な史実になった。」
こうしてイタリアに乗り込んだハンニバルは、各地で次々とローマ軍を打ち破っていきます。そのローマ側の負け戦の将の中には、5巻で主役となるローマの若き将スキピオのお父さんも含まれています。危うく命を落としそうになった父を救ったのが初めて従軍した17歳のスキピオでした。
喉元に刃を突き付けられたローマは意を決しついに決戦を挑みます。会戦の場所は南イタリア、アドリア海に面したカンネの平原でした。
このとき31歳になっていた武将ハンニバルは、兵力でややハンニバル軍を上回るローマ軍に対峙して積極的な行動は何一つ起こしませんでした。ローマの司令官たちがハンニバルの策略にはまることを極度に警戒していることを見抜いていたからです。彼らを会戦に誘い出すには彼らの警戒心を解く必要がありました。そのため、緒戦はわざと負けて戦いの主導権はローマ側が手中にしていると思わせたのです。
積極攻勢に出てきた敵の主力の歩兵部隊に自軍の精鋭を当てて釘付けにし、その隙にローマ騎兵を叩いて、相手の機動力を封じた後、改めてハンニバル軍の強みでもある機動力を活かして全兵力でローマの歩兵を包囲したのです。カンネの戦いでの犠牲者はローマが7万人、勝ったハンニバル側は5,500人で、そのほとんどがガリア兵でした。
ローマの全歴史を俯瞰しても、ローマがこれほどの敗北を喫したのはこのカンネの会戦が最初にして最後となりました。
ハンニバルが獅子身中の虫のようにイタリア内に喰いついて暴れるという窮地の中、やがてローマの救世主となる1人の青年がローマの元老院に現れました。わずか24歳に過ぎなかった青年スキピオは、資格獲得に16歳も不足していたのに自分を司令官として戦線に派遣して欲しいと申し出ます。その要求を拒めないほどローマでは人材が払拭していました。
こうして第二次ポエニ戦役の舞台に、ハンニバルに勝るとも劣らないもう1人の天才武将スキピオが登場しました。
塩野七生女史は言います。「私には、アレクサンダー大王(BC356~BC323 )の最も優秀な弟子がハンニバル(BC247~BC183)であるとすれば、そのハンニバルの最も優れた弟子は(ハンニバルより12歳年下の)このスキピオではないかと思われる。そしてアレクサンダーは弟子の才能を試験する機会をもたずに世を去ったが、それが彼の幸運でもあったのだが、ハンニバルの場合は、そうはならなかったのであった。」
スキピオはハンニバルの足跡を逆行するようにしてスペインへ赴きました。
冒頭でハンニバルがスペインのカルタゴの本拠地であるカルタヘーナ(新カルタゴの意)を出発したのがBC218年でハンニバルが29歳のときだと申し上げました。スキピオがそのカルタヘーナを攻略したのはBC209年でスキピオが27歳のときでした。スキピオは相当ハンニバルの戦い方を研究していたようです。スキピオの戦略・戦術はハンニバルのそれにそっくりでした。
スキピオはスペインの地でカルタゴ勢を蹴散らし、その華々しい戦果で、これまた資格年齢に達していなかったのですが、31歳でローマの執政官に選ばれます。彼が、次に矛先を向けたのが、北アフリカにあるカルタゴ本国でした。
ハンニバルは、スペインのカルタゴ勢壊滅に続いて次の標的がカルタゴの本拠地でそこも狙い撃ちにされたことから、カルタゴ本国への撤退を決めました。BC203年の事です。彼がカルタヘーナを出発しアルプスを越えイタリアに攻め込んでから実に15年の歳月が経っていました。齢も43歳に達していました。
スキピオに率いられたローマ(4万)とハンニバルに率いられたカルタゴ(5万)の両軍は、カルタゴから内陸に入ったザマの地で相対しました。このあたりの醍醐味は、塩野七生氏の原文で味わってみてください。P.58~P.91に渡って塩野女史の筆が楽しそうに踊っています。
この戦いは戦略戦術の上での師と弟子とのはじめての直接対決でもありました。さらに興味深いことにスキピオがそう仕向けて(講和条件を提示して)ハンニバルが戦いの前に会談を申し入れているのです。
講和条件に関する会談は決裂し、ザマの会戦(BC202)決戦となりましたが、14年前にカンネの平原で起こったのと同じ状態が、ザマの平原で再現されたかのようでした。45歳の古代屈指の名将ハンニバルは、部下が次々に殺されていくのを見守るしかありませんでした。12歳年下の弟子ともいえるスキピオの一方的な勝利でした。
この「ザマの会戦」での勝利は、ローマにとって単にカルタゴとの戦いに勝ったということだけではなく、地中海世界全体も決することになりました。(BC190 シリア、ローマに敗れ講和、ローマが地中海のほぼ全域の制海権を獲得、BC146カルタゴ滅亡、ローマの属州となる、BC146マケドニア王国領がローマの属州となる)
ザマの会戦の勝利に報いるため、スキピオには「アフリカヌス」という尊称が贈られました(北アフリカを拠点としていたカルタゴ軍を破ったため) しかし、共和制のローマは英雄を好みません。親戚のスキャンダルをきっかけとしてスキピオは失脚し、ローマ政界から姿を消してしまいます。BC183年にスキピオ・アフリカヌスは、リテルノの別荘で亡くなりました。享年52歳でした。奇しくも、ハンニバルもイタリアからもカルタゴからも遠く離れた黒海沿岸のピティニアで同じ年に64歳で死を迎えました。
生まれたのがハンニバルがBC247、スキピオがBC236のほぼ12歳違い、歴史に登場したのがハンニバルがスペインカルタヘーナを出立した29歳、スキピオはハンニバルの足跡を逆にたどりカルタヘーナを攻略した27歳、ハンニバルのイタリア進攻の天王山となったカンネの会戦に勝利したのが31歳、スキピオがその後のローマの地中海世界を制覇するきっかけとなったザマの会戦でハンニバル率いるカルタゴを完膚なきまでに破ったのが33歳、そして同じ年のBC183年にハンニバルは64歳、スキピオは52歳で亡くなりました。
同時代に生まれた二人の天才武将の手に汗握る活躍劇を是非塩野七生節でお楽しみください。