私は、新宿中村屋のインドカリーが好きです。
私にとっては、今から約40年前の大学生活を送った大阪在住時代からの好物カレーです。 今は無くなってしまいましたが、昔梅田駅の阪急三番街の地下に新宿中村屋のレストランがありました。 下宿先から梅田駅に出たときは、この新宿中村屋のインドカリーか、同じく三番街地下にある(これは今でもあります)店名「インディアンカレー」のカレーを食べるのが楽しみでした。そうです私の好きなカレーは「インドカリー」と「インディアンカレー」のカレーなのです。紛らわしいですね。
今は、かれこれ30年以上東京で暮らしています。通算で10年あまり監査役の仕事に従事しており、その監査役研修会が新宿にある会場で開催されることが年に複数回あり、その度にランチを新宿中村屋でとっています。私が食べるのは決まって「インドカリー」です。
最近(2018年7月)食べに行ったときは、幻の白目米(小粒でべとつかずカリーに合う味のお米)のキャンペーンをやっていました。+150円ということなので食べてみました。ぱさぱさのタイ米をイメージしたのですが、タイ米に比べると確かに小粒でなかなか上品な味でした。
この中村屋の目玉商品・インドカリーを誕生させたのが、1915年に日本に亡命してきたインド反英独立の志士ラース・ビハリー・ボース(R.B.ボース)でした。(1943年東京で開催された大東亜会議に参加したインド代表のスバス・チャンドラ・ボースと区別するため、「中村屋のボース」と呼ばれています。)
ボースはチャールズ・ハーディング総督暗殺未遂事件で爆弾を投擲して負傷させ、また「ラホール蜂起」の首謀者とされ、イギリス植民地政府から12,000ルピーの懸賞金をかけられたお尋ねものでした。ボースの日本への亡命はイギリスの追手から逃れると同時に独立運動のための武器を得るためだったと言われています。
彼が日本に亡命した後も、イギリスは外交筋(在日イギリス大使館)を通じて日本政府にR.B.ボースの身柄拘束、引き渡しを執拗に要求していました。この頃は日本政府も日英同盟を結んでいたため、英国の要求に従わざるをえませんでした。(日英同盟は、第一次世界大戦後に日本がドイツに歩み寄ったためイギリスと利害対立が起き、1918年~1919年頃事実上効力が亡くなり、その後1923年に正式に失効してしまいます。)
日本へ亡命したR.B.ボースを執拗に追いかけるイギリス政府筋/日本の警察から、彼の身を守ったのが、頭山満を筆頭とする玄洋社・黒龍会のアジア主義者たちでした。
亡命後のR.B.ボースは、留学中の孫文や、頭山満、大川周明、北一輝、宮崎滔天等と親交を深めていきますが、日本政府がついに日英同盟の下で英国外交筋からの圧力に屈し、R.B.ボースに国外退去命令を下します。
このとき、新宿中村屋の常連に玄洋社と係わりをもつ者がいて、その人の依頼を受けた新宿中村屋の創業者の相馬愛蔵・黒光夫妻がR.B.ボースを離れに匿ったのです。
困難な地下生活は1918年まで続きました。 1918年にドイツが連合国との第一次大戦の休戦協定に応じたため、英国がR.B.ボースを「ドイツの諜報活動と通じている」として日本国外撤去を求めていた大義名分が失効したのです。
R.B.ボースの1915年~1918年の地下生活時代のなぐさみの1つがカレー作りでした。 後の中村屋の「インドカリー」として正式に商品化されたのはその時代から10年以上たった1927年のことでした。
R.B.ボースは、この年に地下生活を献身的に支えてくれた中村屋店主の娘と結婚し、1920年に長男、1922年に長女を設け、翌1923年に日本に帰化しました。 日本のナショナリスト、政治家、軍人たちと交流し日本国内での発言力を高めていきます。 堂々とインド独立実現へ向けて反英独立運動に奮闘する中、アジア大陸進出を急速に推し進める日本の壮大な軍事作戦にも深くかかわっていくことになります。
中村屋のインドカレーには、過酷な地下生活、ささやかなロマン、さらに過酷な20世紀前半のアジア史に翻弄された革命家R.B.ボースの夢がたっぷり隠し味になっているようです。
話が長くなりましたが、白目米は江戸時代、武州幸手(現、埼玉県幸手市周辺)で栽培されていた最高級米(その優れた食味から日本一美味な米として幕府に上納され「殿様米」としてもてはやされました。明治に入ってからは宮内省(2012年現在の宮内庁)指定の御納米として扱われましたが、その一方で栽培が難しく、背丈が高く倒れやすい・収穫量が多くないなどの特性により昭和初期には生産量が減少していました。)で、中村屋創業者の相馬愛蔵がカリーとの相性がいいことから契約栽培を依頼し、昭和13年(1938年)頃までインドカリーに用いていたそうです。
第二次世界大戦後の米穀統制で、白目米は栽培されなくなり、まさに幻の米となってしまいました。
その後、平成8年(1996年)に新宿中村屋がインドカリーの発売70周年を機に白目米の復活を企画し、農林水産省の「農業生物資源ジーンバンク」に保管されていた種籾から白目米が収穫されたのです。2年かけて半世紀ぶり白目米を復活させた功労に対し農林水産大臣賞が贈られています。新宿中村屋では1998年以降毎年、期間限定で白目米を使用したカレーが提供されているのだそうですが、たまたま私が7月のある日そのキャンペーンに出くわしたというわけです。
コンビネーション・サラダとチャイとをセットにして+150円の白日米で食べたインドカリーの味はまた格別でした。締めて税込み2,516円の「恋と革命のちょい辛カレー」でした。
ボースの日本亡命は彼が58歳の生涯を日本で閉じる1945年1月まで約30年続きました。多くの人命を奪った大東亜戦争が終結する7ヶ月前であり、彼が15歳の時に独立運動に目覚めた祖国インドが独立(1947年8月15日)した2年半前のことでした。
R.B.ボースの生涯について興味のある方は中島岳志著の「中村屋のボース」(白水社)を読んでみてください。
英国の植民地政策でインド以外のビルマ、マレー半島、シンガポール統治で重要な役割を果たしていたインド人傭兵(セポイ)が、日本軍の大陸侵攻に触発され、日本軍の捕虜になるよりインド独立戦争を共に勝ち取る大義名分を与えられ、マレー大陸侵攻、シンガポール陥落に大きな貢献をしたエピソード等が興味深く書かれています。
さらに状勢が悪化する中でのインパール作戦もそうしたインド人兵士たちのインドへの夢の実現のため敢行された一面があったこと、1943年の東京で開催された大東亜会議に参加したインド代表のチャンドラー・ボースはR.B.ボースからマレー大陸に点在するインド独立のためのインド兵を統括する役割を引き継いだ別人というか後継者であることも知ることができます。