
このジョセフ・フーシェは、敵にもしたくないですし味方につけたくもないですね。できたら関わりたくない人物ですが、自分が功成り名を遂げる出世をしたければこうした権力に鼻の利く人物との付き合いは多かれ少なかれ必要となってくるのかもしれません。
天性の裏切り者、いじましい策謀家、ぬらりくらりした爬虫類的性格、職業的な変節漢、下劣な岡っ引き根性、みじめな背徳者とか軽蔑をこめたありとあらゆる悪口で形容されるジョセフ・フーシェが警察庁長官という権威を被っていたのですから大変です。
去年、元CIAの局員だったエドワード・スノーデンの映画を観ましたが、ありとあらゆる個人情報が権力側にストックされ、その情報が権力側に都合よく操作されるって恐ろしい映画でしたが、そうした手法の原点となるような仕組みを編み出した人がこのジョセフ・フーシェでした。
私が最初にこの本を読んだときは1983年でした。もう35年前です。
今年(2018年)が明治維新から150年ということでNHK大河が「西郷どん」です。ということで司馬遼太郎の「翔ぶが如く」を読んでいますが。この「翔ぶが如く」全10巻も実は1983年に読んでいました。
翔ぶが如くの1巻か2巻あたりに司馬遼太郎氏が余談話としてシュテファン・ツヴァイクの名作「ジョゼフ・フーシェ」を紹介していたのです。
奇しくも今回も「翔ぶが如く」を読みながら(現在8巻を読書中)、この「ジョセフ・フーシェ」も再読してしまいました。
司馬遼太郎氏の余談話は次のようになります。
”川路(利良)は、フランスで政治警察を仕入れてきた男である。フランスの警察では、「かつてフランスの警察を擁立したジョゼフ・フーシェこそ、文明社会の警察の聖者というべきである」ということを聞かされ、フーシェについて知識のない川路はその通りに信じた。川路の知らないことであったが、フーシェがヨーロッパの近代史上、信じがたいほどの変節の政治家であり、川路の時代よりずっと後、作家シュテファン・ツヴァイクの名作「ジョゼフ・フーシェ」によってその悪党としての性格と行跡を完膚なきまでに解剖されてしまった人物である。”
さらに司馬遼太郎氏は、バルザックの「暗黒事件」という小説を読んでシュテファン・ツヴァイクが、ジョセフ・フーシェという人物に興味を持ったのだとも書いていました。その「暗黒事件」で特別な光を輝かせたのが皇帝ナポレオンだとすれば、ジョセフ・フーシェはナポレオンの背後から闇を貫くような眼光で歴史を操る人物として描かれていたそうです。
そのフーシェの伝記を書き上げたツヴァイクは感じのよくない主人公を書いたことを悔やみそれまでの文学的成功をフイにしたかもしれないと心配しましたが、作品は重版出来を繰り返しツヴァイクの名声を確かなものにしました。
この「ジョセフ・フーシェ」では、彼が1759年にナントで生まれ、フランスから国外追放処分になり1820年に当時のオーストリア=ハンガリー帝国のトリエステ(今は隣国スロベニアの国境沿いに位置するイタリアのアドリア海を臨む港町)で61歳の生涯を閉じるまでの波乱万丈の時代と彼の生きざまが描かれていました。
彼が生きた時代そのものが動乱でした。大きく分けるとフランス革命の10年(1789年~1799年_ナポレオン・ボナパルトによるクーデターと帝政樹立)と時代は若干被りますが、ナポレオンがパリの街中で大砲をぶっ放して反革命分子を撃破した1795年からセントヘレナで死ぬ前年の1820年までの25年間の”ナポレオンの時代”が彼(フーシェ)の生涯(1759~1820)にすっぽり収まっています。(ナポレオンはフーシェが亡くなった5か月後に死去しました。享年51歳)
その間のフランスの政体ですが、絶対王政、立憲君主制、共和制(含む総裁政府)、執政政府制、帝政へと変遷していきます。
ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの国外逃亡が失敗するまでの1791年までが絶対王政、1792年~1793年が立憲君主制です。
1792年から過激共和派が多数を占める国民公会が成立し、1973年1月にルイ16世が処刑されます。その1793年~1804年を第一共和制と呼びパリ民衆議会の王に同情的だった穏健派のジロンド派が追放され過激なジャコバン派の独裁・恐怖政治が強化されていきます。1793年10月にマリー・アントワネット、1794年4月にはダントンとその一派が処刑されました。
1799年のクーデターからナポレオンは執政政府を樹立しましたが、この年で1789年から始まった10年のフランス革命が終わったとされています。
ナポレオンの時代と呼ばれる25年は1795年から始まります。
先ほど第一共和制を1792年~1804年という括りにしていましたが、厳密にいう共和制は1792年~1794年としたほうがいいかもしれません。1794年以降は、恐怖政治の温床ジャコバンクラブは解体され、王党派が実権を握り、このあたりから当時25歳のナポレオンが台頭してきます。
1794年は共和制の革命政府で政敵を次々に断頭台に送っていた独裁者とも称されたロベスピエールが失脚し処刑されてしまいます。そのときロベスピエールの弟と親しかったナポレオン(当時は有能な少将として売り出し中)も逮捕、収監され失脚してしまいます。
翌1795年には、パリにおいて王党派の蜂起ヴァンデミエールの反乱が起こりました。この時に国民公会軍司令官となって旗を振ったのがポール・バラスです。彼は知り合いのナポレオンを副官として登用し、実際の鎮圧作戦をナポレオンに一任しました。ナポレオンは首都の市街地で一般市民に対して大砲を撃つという大胆な戦法をとって反王党派の鎮圧に成功したのです。これによってナポレオンは師団陸将、国内軍副司令官、国内軍司令官へと昇りつめ、「ヴァンデミエール将軍」の異名をとることになりました。
この後1796年にナポレオンはジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しますが、彼女は貴族の未亡人でありバラスの愛人であったことでも有名でした。
この1796年から1799年までバラスを首班(総裁)とする総裁政府が続き、イタリア方面軍の司令官として海外遠征のナポレオンには連戦連勝の活躍がありました。
1799年にはイギリスからの呼びかけで対仏大包囲網が構築され、イタリアをオーストリアに奪い返され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まりました。それを知ったナポレオンはエジプトに展開していた軍を現地に残し、単身フランスに戻り、統領(執政)政府を樹立し自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握りました。歓喜で迎えたフランス国民の後押しでナポレオンのクーデターは成功しました。
執政として独裁権を手にしたナポレオンは、1803年に皇帝になりました。1804年~1815年が皇帝ナポレオンによる第一帝政です。1814年にナポレオンは退位しエルバ島に流され、ルイ18世が即位しますが、1815年にナポレオンはエルバ島を脱出しフランスに再上陸しワーテルロー敗戦まで100日天下を築きました。敗戦の結果ナポレオンはセント・ヘレナ島に流されました。一応、1795年からセントヘレナで死ぬ前年の1820年までの25年間の”ナポレオンの時代”と括りました。ナポレオンが島で亡くなったのは1821年5月です。
一方、ジョセフ・フーシェは、1790年にナントの僧院で高等学校の教師をやっていました。1792年に過激共和派が多数を占める国民公会を成立させたとき33歳でしたが議員に選出されました。1793年にジャコバン派の勢い盛んなとき、フーシェはもちろんルイ16世処刑推進派でしたし、政府要員としてリヨンで反革命派の大量処刑を行って頭角を現しました。
1794年には恐怖政治実施に関してロベスピエール一派と対立しジャコバン派を除名されます。逆にそのことが恐怖政治に対する反動でロベスピエールが処刑されたときフーシェの命を救いました。恐怖政治への反動の動きの火の粉はリヨンの虐殺者と異名を取ったフーシェにも降りかかってきたのですが、大虐殺共犯のコローの単独犯として押し切りました。暴君ロベスピエールから睨まれていたことが何よりの追い風になりました。
命は助かったものの追放処分を受けたフーシェを拾ってくれたのは、共和国をルイ18世に売りわたして自らの出世を企んでいた王党派のバラスでした。このときバラスから与えられた仕事がバラスの政敵の弱みを探るスパイでした。そしてその仕事はフーシェの天職となる警察長官へと繋がっていくのです。
彼はそのスパイ目的遂行のための情報網の構築をしました。そして情報を個人的な報復や政治的駆け引きのための毒薬として保管することにいそしむことになりました。ナポレオンの妻ジョセフィーヌもフーシェの手駒のスパイの1人だったというから恐れ入ります。
ナポレオンがエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪により処刑されるリスクを犯してまでフランスに戻ってくることは、当時のバラス総裁政府の中で警察長官を任じられていたフーシェは(ナポレオンからジョセフィーヌに宛てた手紙で)お見通しでした。フーシェはもちろんバラスには報告しません。国民の歓呼の歓迎を受けるナポレオンにバラス総裁政府の情報全般を提供することで1799年のナポレオンのクーデターが成功したのです。
バラスを蹴落としてナポレオンを主人に選んだフーシェですが、こそこそとナポレオンの秘密を嗅ぎまわったりときに越権行為をするため、その後何度か皇帝ナポレオンとの鍔迫り合いのような争いが続きます。ナポレオンの部下として優秀だけど油断できない曲者フーシェは、ナポレオンの元で警察長官の罷免と拝命を3度繰り返しています。優秀だけど不忠実なナポレオンの部下としてはフーシェの他にタレーランがいました。
フーシェとタレーランは互いに無神論者(タレーランはかつて司教でしたがその職を投げ捨て共和制主義者に転向)、日和見主義者(風見鶏)で、決して互いを信用していませんでしたが、ナポレオンの手から権力を取り上げルイ18世を国王に祭り上げる時はタッグを組みました。
ナポレオンと対立し、その敵であったルイ18世の王政復古に協力し、その下でフーシェはは再び天職である警察大臣になりました。しかし彼の節操のなさはどうでしょう、本来の官僚職がそういう性格のものかもしれませんが流されていたナポレオンが島を脱出し、皇帝に復帰するや、その警察大臣にもなるのです。やがてフーシェに見放されたナポレオンの百日天下が終わると、ルイ18世を再度迎え入れ、またしてもその警察大臣に納まりました。
しかし、王政下で、かってルイ16世の処刑に賛成したことを蒸し返されて国外に追放され、その後政治的舞台に近づくことは許されず4年後に61歳で死去しました。
ルイ16世を父にマリー・アントワネットを母とするアングレーム公爵夫人の執拗な復讐心はルイ16世の弟である18世の王家全員の心を動かしました。王に返り咲いた18世は当初フーシェの手腕、経験、情報網によって基盤を固める必要がありましたが、いったんその基盤が落ち着くと、もう一人の変節の旗頭タレーランにフーシェに引導を渡すよう勅命したのです。
フーシェは、トリエステの地で死ぬまで敵対者たちの情報を肌身離さず持ち続けて保身に努めたそうです。死ぬ間際にそれら一切を灰にしました。それを聞いてほっとした当時の政財界の要人が多かったことは容易に想像できます。
フーシェとナポレオンの微妙にして奇妙な関係をツヴァイクは興味深く描いています。
一例を挙げると「ナポレオンは嫌々ながらフーシェを用いたのである。・・・この男は今まで数多くの者をいざという時になって見捨て裏切ってきているからには、それと同じ手で、危急存亡の瞬間に、自分を猫の死骸のようにほったらかして、見殺しにするだろうということが、分かっている。しかし、彼にはこの男が要るのだ――ナポレオンがその天才によってフーシェを魅惑していたと同じに、フーシェが役に立つということが、相変わらずナポレオンにとっては魅力なのだ。・・・なぜなら天才の最も堪えがたい代物は凡庸であるからであって・・・忠実にして無能な人々よりも、むしろこの賢明にして信任しがたい男を用いたのである」。
その言葉を裏付けるエピソード、私の好きなエピソードですが、がありました。
ナポレオンの遠征中に攻め込んできたイギリス軍に対して、留守番の一大臣だったフーシェがナポレオンをはじめ他の大臣の意見も聴かずナポレオンから戒告処分された将軍を登用し国民衛兵を招集しいかにも皇帝代行のような顔をして独断専行でイギリス軍の侵攻を退けたのです。癇癪持ちの皇帝からの大叱責を期待した陸軍大臣をはじめとする他の大臣はナポレオンから逆に無為無策を叱られフーシェに対する擁護を聴かされるはめになる顛末が紹介されていました。
ナポレオンに恐れられた男として面目躍如のエピソードでした。
フーシェがナポレオンから罷免されるときが何度かありましたが、その度にナポレオンはフーシェが変な気を起こさないよう最大の配慮を怠りませんでした。たとえば、フーシェが握った情報を使ってナポレオン政府を混乱に陥れることなどをしないよう、彼にオラント公爵という貴族の称号を与えなおかつお金に不自由しないよう手配をしていました。