月間文藝春秋2月号に掲載された塩野七生氏と小泉進次郎衆議院議員の対談を興味深く読みました。
塩野七生氏が長期歴史エッセイはこのギリシア人の物語三部作が最後の作品になると言っていました。
「塩婆ぁ、耄碌するのはまだ早いぞ!」と思うのですが、最後に描いたアレクサンドロスの色気にすっかり毒気を抜かれて、彼以降の人物は描こうにも彼女の食指が動かなくなったのかもしれません。
小泉進次郎氏は、年末年始に特に三巻のアレクサンドロスの物語にどっぷり浸かったそうで、彼の「生涯の書」の1冊になると言っていました。
さらに小泉氏のアレクサンドロスというこれだけ魅力的な男が何故日本であまり知られていないのかという質問に対しては、塩野氏が間髪入れず「紹介するのが学者だからです。」と言い切っていました。
(日本の)学者は歴史上の人物を魅力的であると感じてはいけない、感じれば「学問」と見なされない危険があると思っているのだそうです。歴史エッセイを書くとき塩野氏は徹底的に調べ、そこから再構築(感情移入?)をするそうですが、学者は主観や感情は極力排するがゆえ再構築はしない=面白くない=(日本の)読者の多くが読まないのだそうです。
塩野氏は、歴史とは人間の生きた証でもあると述べた上で、日本の学者のように科学的に処理する扱い方は単一かつ短絡的に過ぎるように感じられているようでした。
アレクサンドロスにすっかり魅了されたかのような小泉氏でしたが、塩野氏は、小泉氏はまだ未完成で、この先つぶされる危険があるとしたうえで、心すべきは攻めより守りだと諭していました。
そして王政のトップだったアレクサンドロスより、ギリシア人の物語Ⅱの主人公のペリクレスが民主制のトップであるのでペリクレスの例が(つぶされない守りのために)役に立つといっていました。毎年行われる民主政の選挙でペリクレスは30年もの間連続当選を果たしたそうです。
私の読んだギリシア人の物語Ⅰの主人公は、本の表紙を飾っているテミストクレスですが、彼は大国ペルシアが攻めてくるという国難の時期に、先見性と全ギリシアという広い視野に立った戦略で国難を退けたリーダーでした。
そしてⅡ巻で主役を張るペリクレスは、彼もまたアテネの民主政の中に生まれたリーダーでしたが、テミストクレスのおかげで国難は去った後に登場してきます。彼の30年の治政の間、アテネは経済や文化が発展し黄金期を迎えます。軍事力、経済力、そして外交力で他国と同盟を築きながら30年間平和を貫きました。
つぶされないための守りという点で、塩野氏は小泉進次郎にペリクレスを学べといっているのです。つぶされないための守りの後は攻めですが、それについてはテミストクレスは持ち出さず、アレクサンドロスを参考にせよと言っていました。
後の先のテミストクレスではなく、同じ攻撃でもアレクサンドロスのように自ら仕掛ける先制攻撃ですね。誰よりもリスクを引き受けてダイヤの切っ先になれと言っていました。好き勝手言い放題のアドバイスに思わず頬が緩んでしまいました。
私は、まだⅡ巻、Ⅲ巻を読んでいないので、塩野氏のように俯瞰した見方から、ペリクレスと小泉氏がどうやら惚れ込んだらしいアレクサンドロスを言及できないのですが、つぶされないためのリーダーシップの発揮という意味ではこの第Ⅰ巻のテミストクレスの例は非常に参考になると思いました。
アテネの指導者テミストクレスの活躍が語られるのは、B.C.480年の第2次ペルシア戦役の前からです。
第1次ペルシア戦役はB.C.490年のマラトン平原での戦いです。こちらは主力のスパルタ軍が遅参したにもかかわらずアテネの指揮官ミリティアデスの作戦が功を奏しペルシア軍を退けました。この戦勝報告のため戦地マラトンからアテネまで走ったのが今のマラソン競技の起源となっています。
マラトンで勝利した翌年、ミリティアデスはペルシア支配下のエーゲ海に浮かぶバロス島に出征しての攻防戦で重傷を負います。敗戦、撤退に対する責任をアテネ内の対立勢力から問われ有罪判決が下された後、ミリティアデスは負傷が悪化して死去します。
いったん英雄となっても、都市国家アテネでは、いつつぶされてもおかしくないのです。
テミストクレスはミリティアデスと同様、対ペルシア強硬派でした。ミリティアデスは対ペルシア穏健派によって告発されたのでした。
遠くを見る目を持つテミストクレスは、エーゲ海からペルシア軍を追放するためにも、将来ペルシア軍から攻め込まれた場合の防御のためにも、今後はアテネに海軍力を装備することが必要だと考え、200隻の軍船の建造を進めようと決意します。
その提案を通すために、実に4年もの歳月をかけて、対ペルシア穏健派(したがって、軍船建造を必要と認めない)の主だったメンバー4人を次々と陶片追放したのです。
そして、穏健派の勢力が弱ったところで自ら政治・軍事の最高司令官に就任し、軍船建造を含めた海軍力強化を推進し、第2次ペルシア戦役をB,C.480年に迎えました。
ただペルシアと戦うのはアテネ一国ではありません。
ギリシアの連合艦隊の指揮権を巡って、スパルタ、アテネ、コリントと三つの都市国家(ポリス)の司令官がもめます。
最新の軍船200隻の建造で、最高指揮権を主張してもいいアテネでしたが、そんなことでぐずぐず時間を費やすわけにはいきません。ペルシアの大艦隊を撃退するために、テミストクレスは最高指揮官の地位を惜しげもなくスパルタに譲ります。しかし彼はちゃっかりと作戦運用面で実質の最高指揮権を手放しませんでした。名を捨て、実を取ったのです。
サラミスの海戦ではテミストクレスの戦略と戦術が功を奏し対ペルシア軍に見事勝利を収めました。(このあたりのテミストクレスのしなやかな対応力が小泉氏のつぶされないための参考になると思うのです。)
その海戦の後、エーゲ海でのペルシアの拠点を攻め、エーゲ海をギリシア勢力で固めます。そしてエーゲ海の安全保障のため、アテネを中心とした集団防衛システムというべきデロス同盟を構築したのです。B.C.477年の事です。
さらにアテネ防衛のため内地にあるアテネと外港ピレウスを繋ぐ道を舗装し堅固な外壁で覆いました。(これも、アテネの穏健派とスパルタの猛反対に会いますが、いかにも対処しますといった風にスパルタにのこのこでかけて交渉するふりをし時間を稼いでいるうちに、突貫工事で道も外壁も仕上げて既成事実をつくるという裏技を使っていました。)
そのようにアテネにとっても、ギリシアにとっても英雄と言ってよいテミストクレスもB.C.471年に陶片追放の憂き目にあいます。
彼が、サラミスの海戦の折、陶片追放していた政敵の何人かを呼び戻して、兵を指揮させたこと、対ペルシアとの戦勝後、未練なく権力の座から離れたこと等が原因ですが、時間が経ってペルシアの脅威が薄れたことも大きい要因だと思われます。
ある意味、民主主義は両刃の剣のような側面もありますね。
ただテミストクレスはペルシアの脅威に関しては、その民主主義を上手く活用して、自らの信念を貫き通したように思えます。この第1巻でも塩野七生氏はそのテミストクレスの活用の見事さを大いに讃えていました。
小泉進次郎氏との対談で、塩野氏が第1巻の表紙を飾っているテミストクレスに関してほとんど言及しなかったことが残念に思えました。(塩婆ぁ、耄碌したか!)
小泉進次郎氏がつぶされないために、テミストクレスの遠くを見る目と制度を活用する手腕が非常に参考になると思いつつ第1巻の頁を閉じました。