「この稿は、川路利良の渡仏と帰国からはじまっている。」という文章が第三巻の222ページにみられます。
この稿というのが「大警視」という章を指しているのか、それとも「翔ぶが如く」の1巻から3巻半ばまでを指しているのか定かではありませんが、私は後者とも解釈できるとしました。 これまでのあらすじが見事に要約されているようにとらえられているからです。
「川路の帰国は、このとし(明治6年)の夏であった。 その後征韓論が決裂し、西郷が風のように東京を去り、さらには近衛将校が騒擾して集団辞職という事態がおこってしまっている。 帰国してわずかの間に日常の感覚が狂うほどに無数の事件がむらがりおこった。維新国家が、まだ近代国家のかたちをなさないままで音をたてて亀裂し始めている。」
西郷は上士出身の薩摩士族を近衛将校・下士官とし、郷士出身のそれをポリスにし、川路にポリスを委ねたのです。 これによって薩摩郷士2千人がポリスになって東京に駐り、市中を巡回することになりました。
川路が郷士身分から奇跡のように出頭してこんにちの地位(邏卒総長・大警視)についたのはまったく西郷ひとりのひきたてによるもので、西郷の恩顧を受けることの深かった川路も辞表をたたきつけ、西郷下野のあとを追って鹿児島に帰るものと思われました。
しかし、川路は「西郷先生とのことは私事である」として動きませんでした。 そして新国家体制づくりに没頭する大久保利通を支えポリスとして国家を背負う決意をしたのです。
結果として、大久保は同郷の上士出身の軍人から見放され、同郷の郷士出身の警察官から支持を受けることになりました。
大久保は、その陰湿な印象を残す一因となる密偵を政治目的のため使い始めます。
フランスの近代警察制度をつくった修道僧あがりの保身に長けたジョセフ・フーシェをフランス革命の志士と信じて疑わない川路は無邪気なまでに、フーシェのの得意とした密偵活動を活発にしていきます。
新たに募集した邏卒には薩摩人がほとんどいないことは当然のことながら、それどころか出身県でみると薩摩人に対して怨恨を持つ者が多く、川路は皮肉なことに反薩摩傾向の濃い集団を率いることになっていきます。
廃藩置県の折の県名ですが、戊辰戦争での官軍と幕府軍では差別的な色分けがされたというエピソードも面白く読みました。
新政府樹立に功績のあった藩は、その城下の地名を県名とすることが許されました。 鹿児島県、山口県、高知県、佐賀県、福井県などです。 岡山県、広島県、鳥取県、福岡県、秋田県等もそうです。
これに対して、若松県→福島県、仙台県→宮城県、金沢県→石川県、米沢県→山形県、松江県→島根県は、戊辰戦争において幕府側にたった藩の県名です。 後に熊本県の名を許されましたが、熊本県も当時は白川県と呼ばれていました。
そういえば堺県という県もありました。 後に分割され、大阪府と奈良県に編入されました。
新規募集の邏卒には戊辰戦争でいわゆる幕府側についた藩(県)の出身者が多かったということは、あざなえる縄の如き運命を感じますね。
関ケ原の戦いで西軍として敗れた毛利・薩摩が東軍の徳川に反旗を翻したのが戊辰戦争だったようなものです。
その戊辰戦争で敗れた藩(県)の出身者の邏卒集団や薩摩人が抜けた後の軍に居座った長州出身の軍人が、西南の役で薩摩軍団を押し包んでいくことになります。
それにしても、当時の薩摩士族は明治政府をつくった最大の軍事力でした。それが忽然と政府から離れ、帰郷し、事情が霧に閉ざされ一切不明になってしまいました。 その消息を掴めない東京の政府の心配は日に日に大きくなり、密偵を放って実情を探りたいと思う気持ちは手に取るように理解できます。 しかし旧薩摩藩は幕府時代から二重鎖国の藩でした。 薩摩に潜入した密偵、隠密は無事に戻れないことから片道切符の「薩摩飛脚」と呼ばれたほどでした。
西郷の消息不明は政府の不安を掻き立てる一方で、各府県で不平を鳴らし続けている反政府士族たちの決起に向けての期待をいやがおうにも奮い立たせました。