
漫画「風雲児たち」の第5巻でも後半はほぼ、江戸幕府老中田沼意次(1719~1788)と平賀源内との馴れ初めや関係のことが描かれていました。
平賀源内と田沼意次の馴れ初めは、意次が町人出身の女性を側室にしようとした際にそのままでは身分の問題で側室に出来ないので困っていたところ、源内が女性の養女先を幕府の医者の家に斡旋するという抜け道にわたりをつけた事に始まっていました。
この後、意次は源内の才を見抜いて、オランダ貿易関係の仕事をさせたり、鉱山開発のアドバイザーなどに珍重し資金援助を行います。
この「風雲児たち 6巻」は、なんとなんと、和製ダ・ヴィンチ「平賀源内」のエピソードが丸々1巻に満載でした。
平賀源内(1728~1779)は、高松藩足軽白石良房の三男として生まれ。24歳の時に藩の命令で長崎に留学し蘭学を修めました。
続いて江戸において植物を主にした漢方医学の“本草学”を学ぶ。1757年(29歳)、全国の特産品を集めた日本初の博覧会を開き、それを元に図鑑「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を刊行、世人の注目を浴びます。
本草学者として名を成した彼は、高松藩の薬坊主格となりますが、藩の許可がなくては国内を自由に行き来できない事に不便を感じ脱藩してしまいます(33歳)。
脱藩と言えば坂本龍馬(1836~1867が)有名ですが、坂本龍馬の脱藩(1861)よりちょうど100年前の1761年に脱藩した大先輩が平賀源内です。
この際、高松藩は源内を「仕官御構(おかまい)」に処しました。これは他藩へ仕官することを禁止するものです。
自由人源内は自ら“天竺浪人”と名乗り、秋田秩父での鉱山開発、木炭の運送事業、羊を飼っての毛織物生産、輸出用の陶器製作、珍石・奇石のブローカーなど、様々な事業に手を出しました。また静電気発生装置“エレキテル”、“燃えない布”火浣布(かかんぷ、石綿)、万歩計、寒暖計、磁針器、その他100種にも及ぶ発明品を生みます。正月に初詣で買う縁起物の破魔矢を考案したのも源内だそうです。
一方、画才、文才も惜しみなく発揮します。
油絵を習得して日本初の洋風画「西洋婦人図」を描き、司馬江漢、小田野直武(「解体新書」の挿絵画家)らに西洋画法を教え、浮世絵では多色刷りの技法を編み出し、この版画革命を受けて色とりどりのカラフルな浮世絵が誕生させるなど、八面六臂の活躍でした。
作家としても、ガリバー旅行記のような「風流志道軒伝」を書いています。主人公が、巨人の国、小人の国、長脚国、愚医国、いかさま国など旅するもので当時の江戸でベストセラーになりました。 蘭語のできる源内のことですから、長崎遊学中にオランダ人からガリバー旅行記のネタを仕入れていたかもしれませんね。 (ガリバー旅行記は源内が生れる2年前に英国で刊行されたばかりでした。)
文章の「起承転結」を説明する際によく使われる、「京都三条糸屋の娘 姉は十八妹は十五 諸国大名弓矢で殺す 糸屋の娘は目で殺す 」の作者も源内だとの説があります。
源内が亡くなる1779年夏には橋本町の邸へ移ります。
大名屋敷の建築法で材料と柱と梁の組み方に画期的なアイディアを盛り込み費用の大削減を提案しし、ある大名屋敷の修理を請け負うことになりました。 江戸版プレハブ大名屋敷といった感じです。
大工棟梁に酒を飲みながら、彼の工夫を語る機会を設けたのですが、その際に酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を殺傷する事件を起こしてしまいます。
11月に投獄され、12月に破傷風により獄死したということになっています。
享年52でした。
杉田玄白らの手により葬儀が行われました。
罪人である源内を讃える碑の建立は許されず、結局、その墓碑銘が表されたのは源内の死後150年の昭和5年のことでした。
平賀源内 碑銘(杉田玄白 撰文)
「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行ひこれ非常、何ぞ非常に死するや)
(大意)ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで非常だったのか)
平賀源内の波乱の人生は、夢枕獏氏が「大江戸恐龍伝」1~5巻に描いています。 機会があれば読んでみたいです。