1916年6月、イスラームの聖地メッカの太守フサインがイギリスとの約束を信じてトルコへの反乱を起こすと、両者間の連絡将校を勤める一方、17年3月以降、アラブ附正規軍のゲリラ作戦を指揮し、フサインの息子ファイサルの北部軍に加わって、18年10月、トルコ軍の中東司令部のあったダマスカスを攻略し入場を果たします。ラクダにまたがってネフド砂漠を縦断する アカバ遠征からこのダマスカス入城が映画「アラビアのロレンス」の2つの大きなヤマ場でしたね。
しかし、著者は、アラビアのロレンスとは、西洋人が西洋でつくった西洋人向けのお話の主人公で、このイギリスの国民的英雄は、後に上司のチャーチルの指令に従ってパレスチナをユダヤ人に与え、アラブ世界を分割する政策を推し進める英帝国主義の尖兵だったと切って捨てています。
そのイギリスの矛盾した帝国主義的な政策こそが、現在のアラブ・イスラエル紛争の元凶であることは万民が認めるところです。
著者は、イギリスの三枚舌外交と言っています。すなわち、①アラブへの約束、②同盟国フランスへの約束、そして③シオニスト(ユダヤ人建国運動家)への約束のことです。
①はカイロの英政府代表マクマホンがメッカのフサインの与えたもので、アラブがトルコ領から自力で解放した地域に英政府は干渉しないと約束(マクマホン=フサイン往復書簡)します。この結果、フサインは独立の旗を掲げ(1916年6月)、ロレンスも加わった「アラブの反乱」へと展開していくのです。 イギリスは、しかし勝利の後で、乱発した空手形の清算に苦しみ、この約束を反古にしてしまいます。
②は①の一ヵ月前、イギリスがフランスと結んだ密約で、交渉に当たったそれぞれの国の外交官の名をとってサイクス=ピコ秘密協定と呼ばれています。戦後のアラブ世界(アラビア半島以外)をフランスと山分けにしようというものです。ヒジャーズ王国代表のファイサル(フサインの息子)は、1919年1月からのヴェルサイユ平和会議で初めてサイクス=ピコ協定の全容を知らされたそうです。翌1920年、北イタリアのサンレモでサンレモ協定が結ばれ、レバノンを含むシリアはフランスの、イラクとパレスチナはイギリスの委任統治領になりました。 裏切られたアラブは、シリアで反仏闘争、イラクでは反英闘争を起こしますが、なかでもイギリスを悩ませたのがパレスチナにおける反英・反シオニスト闘争でした。
③シオニスト(ユダヤ人建国運動家)が、パレスチナにナショナル・ホーム(民族的郷土)を建設することをイギリスは承認し、かつ支援するという1917年11月の英政府の声明(バルフォア宣言)が今日のパレスチナ問題の大きな元凶となっています。 イギリスの委任統治領となったパレスチナはこのバルフォア宣言を原則として統治されることになるのですが、このバルフォア宣言を下したイギリスもシオニストも現状認識不足でした。 シオニズムの理念として考えられたスローガンは、「土地なき民に、民なき土地を」というものでした。
バルフォア宣言でイギリス政府がユダヤ人建国を支援する前提としていたのが、パレスチナに現存する非ユダヤ人をマイナー(少数民族)な存在ととらえ、彼らの市民的・宗教的権利、政治的地位を損なうようないかなることもこれを行わないということだったのです。
ところが、パレスチナの地の人口比はユダヤ人1に対してアラブ人が9だったのです。 非ユダヤ人集団はマイナーな存在ではなく、数の上からは圧倒的にメジャーな存在だったのです。 詰め寄ったフサインに対して、イギリスは「政治・経済面で先住民(パレスチナ・アラブ人)の自由と矛盾しない限り」とバルフォア宣言を拡大解釈して逃げ腰になったのです。 これが、イギリスの二枚舌外交、三枚舌が外交と呼ばれる所以です。
少しそのあたりの話がくどいし、構成が整理されておらず、何度も同じ話を繰り返されて閉口しましたが、第一章の学生ロレンスのベイルートからダマスカスを含むシリアの十字軍時代に築かれた城塞跡を訪ねる独り放浪旅の追跡記録はロレンスの青春と彼の人となりがいきいきと描かれ大変興味深いものでした。
十字軍時代に名をとどろかせた暗殺者の語源となったアサシン教団の山城も訪れていました。 紙(パピルス)、本(ビブリオン)、聖書(バイブル)の語源になった都市国家ビブロスにも立ち寄っています。聖ヨハネス騎士団が増改築を繰り返し難攻不落の名城として名高い、またアラブ側からはイスラム世界の喉もと深くに突き刺さった骨として悪評高い、トリポリから内地に入ったホムスのクラク・デ・シュヴァリエにも訪れています。
映画「アラビアのロレンス」で描かれた、遊牧民ベドウィンを主体としたアラブ独立軍を指揮する金髪碧眼の青年考古学者という英雄伝説の虚実の背景を知るという意味では興味深い一冊でした。