10月5日月曜日まで東京日本橋の高島屋8階ホールで開催されていた山崎豊子展に行ってまいりました。
取材に裏打ちされた豊富な情報をわかりやすく書く山崎豊子の著作が大好きで、私は、「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「沈まぬ太陽」、「運命の人」の社会派大作、並びに、「不毛地帯」、「二つの祖国」、「大地の子」に未完の遺作となった「約束の海」の戦争の悲惨さと戦後の生き方を問うた戦争ものの著書を全て一回ないし複数回読んできました。
しかし、この展覧会で「彼女の作家としての原点である」と紹介されている、彼女の大阪(船場)ものの著作には何故か興味が湧かず縁もありませんでした。
デビュー作の「暖簾」、直木賞受賞作の「花のれん」、作家として独立した、「ぼんち」「しぶちん」「女の勲章」「女系家族」等、彼女の故郷大阪・船場が舞台の人間模様を描いた作品が多数あるではありませんか。彼女の生家は南船場にある小倉屋山本という創業200年の老舗昆布屋さんです。その生家の箱入り昆布も山崎豊子展でお土産として売っていましたが、私が買ったのは山崎豊子スペシャルガイドブック(新潮社)でした。
彼女の経歴を読むと、作家として独立する前は毎日新聞の記者だったのですね。上司に井上靖がいていろいろ薫陶を受けたようです。彼女の小説作法にも記者時代に培った取材方法が活かされているわけです。
今回の山崎豊子展での私の大きな発見は、私の頭の中の船場の地図です。大阪の本町にある会社に大学卒業後足掛け5年通っていたにもかかわらず、私にとっての船場のイメージとは、その当時のオフィスの目の前にあった、大阪中央区本町4丁目付近の御堂筋から東は堺筋付近まで東西に伸びた衣料・ファッション関係の卸問屋が入った船場センタービルでした。
ところが、この山崎豊子展でそれが間違いだとわかり、大阪船場の地図が頭の中で大きく変わりました。
船場は河川と人工の堀川に囲まれた(囲まれていた)四角形の地域でその範囲は、東端が - 東横堀川 (阪神高速1号環状線南行き)、西端が - 西横堀川 (阪神高速1号環状線北行き。1962年埋立)、南端で - 長堀川 (長堀通。1964年埋立、御堂筋の心斎橋あたり)北端 - 土佐堀川の東西1km、南北2km。江戸時代の町組の名残で、本町通の北を北船場(きたせんば)、本町通の南を南船場(みなみせんば)と呼び分けることもあるのだそうです。東は上町(内町、東船場)、南は島之内、西は下船場(西船場)、北は中之島に接します。
私が、大阪に行ったとき常宿としている淀屋橋の三井ガーデンホテルもそういう意味では、この大阪船場の範囲の中にしっかり納まっているし、最近読み終えたNHK朝ドラ「あさが来た」の原作「小説土佐堀川」もまさに船場の大店の物語でした。
山崎豊子展で、これだけのセレンディピティ(素敵な偶然、導き、ご縁)があれば、山崎豊子の原点である船場ものを読まざるを得ないですよね。それに桂枝雀の上方落語の中にもちゃんと船場商人の番頭はん、丁稚どんにおいとさんも登場しておま。
もうひとつおまけです。
山崎豊子スペシャルブックに大阪船場の街歩きお勧めコースが掲載されていました。 淀屋橋にある三井ガーデンホテルから北西に歩いてすぐの緒方洪庵の適塾から南に歩いてオペラ・ドメーヌ高麗橋・難波教会、そこから東にある蕎麦屋となっている土山人北浜、そこからさらに東に行って、船場・道修町が舞台の谷崎純一郎「春琴抄」の碑がある薬の神様を祭った少彦名神社、堺筋を渡って重要文化財のボンドメーカーコニシの旧社屋せある小西家住宅からマルヘイ薬局を経て大手橋のかかる東横堀川に至るものでした。 今度大阪へ行ったときの楽しみも増えました。