NHK大河ドラマ「花燃ゆ」には、村田蔵六こと大村益次郎が登場しませんね。
幕長戦争で軍事の異才を見出され歴史の表舞台へと押し出され、討幕軍総司令官となるこの男抜きには戊辰戦争、明治維新は語れないと思うのですが、未だに「花燃ゆ」のキャスティングリストにその名が出てきません。
討幕軍、ひるがえって、日本陸軍の創設者ということで、靖国神社にはこの大村益次郎の銅像があります。
大村益次郎は1824年~1869年、吉田松陰が1830年~1859年ですので、大村益次郎の方がだいぶ先輩ですね。
大村益次郎は大阪適塾で蘭学を学び、その才を買われて、宇和島藩で翻訳や後進の育成にあたります。 この頃のシーボルトの娘イネとのロマンあふれる物語は、この上巻のハイライトかもしれません。
高杉晋作によって”火吹き達磨”と綽名されるくらい特徴のあるでこちん顔の真面目くさった顔の男のロマンはなかなか読みがいがありますよ。
やがてそうなって、これでは埒があかんということで、宇和島の殿様伊達宗城(むねなり)の参勤交代に従い、そのようになったイネを振り切るように江戸にでます。
優秀な蘭学者であった彼を幕府も世間も放っておきません。
宇和島藩の仕事に、幕府の洋学研究機関(後、蕃書調所、洋書調所、開成所、そして明治後に東京大学と名を変えていきます)の教授になり、さらに鳩居堂という私塾の蘭語の先生も勤めたのです。 この鳩居堂には元々医者坊主だった久坂玄瑞も短期間籍を置いていました。
彼が蘭語を学んだ大阪適塾はやがて大阪大学に、蕃書調所がやがて東京大学になるというのもすごいですね。
時代だったのですね~、時代は彼を医者としてではなく、兵学翻訳者として重宝します。 そうはいっても、彼は乞われて女囚の解剖なんぞも行っているのです。
そして奇遇なのは、その蔵六が蕃書調所で学ぶ連中を連れて解剖刀で実地教育を行っていた小塚原刑場では、その2日前に吉田松陰が刑死されていたのです。
松陰の遺骸を引き取りにきた桂小五郎が、このとき村田蔵六/おお村益次郎に邂逅します。
この頃の江戸では、剣道場と蘭学塾が大流行でした。 長州の桂小五郎(1833~1877)は吉田松陰より3歳年上で、松陰の兄貴分といった存在でした。 尊王攘夷に過激に反応することもなく、冷静な現実主義者だったので、長州藩の江戸における外交官のようなことをやっていました。 情報収集や周旋です。
当時の江戸には三大道場がありました。 力の斉藤道場、位の桃井道場、技の千葉道場です。その斉藤道場の塾頭が桂小五郎です。ちなみに桃井の塾頭は武市半平太、千葉の塾頭は坂本竜馬でした。
そうした江戸で蘭語の私塾鳩居堂の先生、また幕府の洋学研究機関の教授である大村益次郎が、長州出身でありながら、宇和島藩お抱えだということを知り、長州藩上役に掛けあって、彼を長州藩に引き戻す労をとったのが桂小五郎だったのです。
小塚原刑場で、桂小五郎が村田蔵六/大村益次郎を見出したことは、松陰の導きだったかもしれません。 私が「花燃ゆ」の作者だったらこのエピソードを使いますけどね。
司馬遼太郎氏もこのあたりの蔵六が電磁性をもったかのように長州藩に引きつけられていく様を、ステファン・ツバイクの「人類の星の時間」を引き合いに出しながら解説しています。 司馬遼太郎少年もツバイクの作品から一瞬の火花のような歴史的感動をもらったようですね。
大阪適塾出身で、村田蔵六/大村益次郎と同じように幕府の蕃書調書に出仕した経歴をもった人に大鳥圭介がいますが、播磨の赤穂出身の大鳥には桂小五郎のような人物がおらず、討幕軍の指揮をとった村田蔵六/大村益次郎に対して、彼は幕府陸軍の育成・訓練を担当していたことから幕臣となり、五稜郭に立てこもり投降するする運命を辿りました。 大鳥はその後も技術・教育・外交関係の分野で活躍し、桂小五郎と同じ年に生まれながら1911年まで生きました。
さて、引き続き花神(中)(下)と一気に読むか、それとも吉村昭の「ふぉん・しぃほるとの娘」を読むか、伊東潤の大鳥圭介を扱った「死んでたまるか」を読むか、正直迷っています。