
外交僧というか、軍師として、戦国時代から安土・桃山時代に活躍したお坊さんで有名な人は何人かいます。
有名どころは、武田、北条、今川の三国同盟のお膳立てをし、今川義元の教育係でもあった太原雪斎(たいげんせっさい)、家康の下で辣腕をふるった黒衣の宰相との異名をもつ金地院崇伝がいますが、NHK大河「軍師官兵衛」に登場する安国寺恵瓊も異彩を放っています。
もともと甲斐国を本貫の地としてきた源家一門の武田の分家で、後鳥羽上皇の反乱(ときの執権北条義時を討とうとした1221年の承久の乱)を幕府軍として一蹴する活躍をした武田信光が、叛逆に加担した貴族や武士の所領の一部であった安芸国をもらい武田氏の子孫に引き継がれました。
その安芸武田家は広島湾を望む地に銀山(かなやま)城を構えていましたが、承久の乱から300年、時代も鎌倉から室町へと変わりやがて下剋上の世となって毛利元就に滅ぼされてしまいます。 安国寺恵瓊はその安芸武田家の最後の忘れ形見だったのです。
そのころ中国地方は出雲の尼子氏と周防の大内氏の二大勢力が覇を競っていたのです。武田家は尼子氏を頼り、毛利は大内氏の傘下に入っていました。そして、恵瓊の父である武田信重が城主であったときに銀山城は毛利・陶の連合軍によって落城の憂き目をみることになったのです。鉄砲が種子島に伝えられる1543年の2年前の1541年のことです。
300余年に渡って安芸国の守護の座を守り続けた名門武田家はここに滅亡してしまいます。そして、その後、中国筋では、周防の大内氏が重臣陶晴賢の裏切りによって滅ぼされ(1551年)、その陶晴賢も厳島合戦で毛利元就に討たれるなど、めまぐるしい下剋上が展開されました。
幼名竹若丸の恵瓊が燃え盛る銀山城から城外へ落ちたときはわずか4歳でした。 名門の血筋でありながら、子供のころから学僧として安芸安国寺で修行を積んできた恵瓊が23歳のときに、京都五山の東福寺の恵心の目にとまります。恵心は毛利元就と京の朝廷や諸大名との交渉にあたる外交僧でもありました。
本来、自分が滅ぼした武田家の生き残りである恵瓊は歓迎されないはずですが、元就からもその才と器をかわれ、やがて、恵瓊は恵心の職務を引き継ぎ、外交僧として辣腕をふるっていく物語になっています。 織田信長の家来秀吉を見出し、有名な文句を披露するところで上巻が終わっていました。
織田信長が足利義昭を追放し、室町幕府の幕引きをして、絶頂期にあった天正元年(1573年)の書状で、安国寺恵瓊は「信長の代、5年3年はもたるべく候。 明年あたりは公家などに成らるべく候かと見及び申し候。左候て後、高ころびにあおのけにころばれ候ずると見え申し候。藤吉郎さりとてはの者にて候」と予想しています。
本能寺の変(1582年)の9年前に、信長の死、秀吉の天下取りを予想していたとは、この坊さん、只者ではありません。
下巻では、毛利方の軍師として、羽柴秀吉の軍師官兵衛と丁々発止の交渉の展開が期待できそうです。