王様のブランチで「泣ける」と連呼していたので、観にいきました。確かに悲しい物語でした。でも、救いのない悲しさで涙は出ませんでした。
身元不明遺体となったお父さん(西田敏行)の埋葬や遺産処分を担当することになったベテランケースワーカーの奥津さん(玉山鉄二)が車の中に残されていた質屋の受取証をもとに自分の車で身元とお父さんの死にいたるまでの足取りをたどっていくものがたりです。
路上生活者は目にする機会がありますが、こうした車上生活者も多いようです。お金が尽きガソリンがなくなって追い詰められていく姿は悲しいというよりも悲惨です。
ネタバレ御免ですが、ちょっと口数が少ない程度の,今どきのごく普通の,お父さんが,職を失い心臓に持病もちの状態で妻に離婚されて,わずかな私物といくばくかのお金と1台の自動車だけを残されて娘が小さいときに拾った犬とともにあてどもない旅に出て,一文なしになった揚げ句に一面のひまわりが咲く花畑のまん中,車の中で絶命,そして数か月後,犬も力尽きるという…おはなしです。
そのお父さんの車上生活の旅を東京を起点として北上し北海道の旭川まで回想しながら同じルートをたどり、秋田犬ハッピーを連れて旅するお父さんのことを尋ねてドライブを続ける奥津さんですが、人生最後の月日を犬と一心同体で過ごしたであろうその仏さんはきっと幸せだったのではないかと想像するシーンでくくっていました。
ちょっとこのシーンは、状況を俯瞰しすぎている気がして違和感を覚えました。物事にはいろんな見方があります。見る側の心の持ちようによってその見方は変わります。このお父さんはあるがままを逆らうことなく全て受け入れて、愛する犬に見守られて死んでいったから幸せと見る奥津さんのような考え方もあるでしょう。でも、最初から諦念観を持っていてどこか死に場所を考えながら目的のないたびをして犬を道づれにしたとも見えます。
「明日も生きる」ということを前提にして向き合う人と、生きるための行動を放棄してやがて人里離れたところで自分の死を待とうとする人とは大きく違うと思います。後者の人のものがたりです。遅かれ早かれ人は死んでいくのですが一人で死んでいくよりも愛犬に看取られた分だけ幸せかもしれない・・・・というのでしょうか。生きる努力を放棄した主人に、そして死んだ後のその主人に残飯を探してくる犬の忠実さも涙を伴う悲しさというより、ため息のでる悲しさという表現があいそうです。
ひまわりの美しい畑とこの悲惨なものがたりの組み合わせもぴんときませんでした。ひまわりは旭川のイメージなのでしょうが、組み合わせるのなら桜の華やかでそれでいて人を寄せ付けないはかない美しさのほうがあっていると思いました。