小学校の頃、明治維新の1868年を「いや~ロッパくん、もう明治だよ」と覚えていました。
このロッパが、エノケンこと榎本健一と並んで有名な浅草喜劇スター古川ロッパからとったものだというのは最近知りました。 「下町のエノケン」に対してきざな芸風から「丸の内のロッパ」と並び称されていたようです。
連続テレビ小説「おちょやん」が始まってから、上方喜劇を作った曾我廼家五郎・十郎、渋谷天外の名を知ったついでに浅草喜劇のスターの名も目にしたのです。
出口治明氏が彼の著書「0から学ぶ「日本史」講義 戦国・江戸篇」で、古代と中世と近世をどの年代で区切るかということについて面白いことを言っていました。
日本史で古代と中世の 分水嶺 は、摂関政治が終わった1068年で、170年ぶりに藤原氏を母としない後三条天皇が即位した年。
そこから、500年後の織田信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年が中世で、そこからさらに300年後の1868年までを近世としていました。
「いや~ロッパくん、もう明治だよ」の他に、「とうとうロッパくん、摂関政治は終わりだよ」、「以後ロッパくん、織田信長が義昭奉じて天下取り始めたよ」
などで覚えられそうです。
ロッパ君の68年繋がりでいけば、日本が鎌倉時代から室町時代への端境期であった南北朝時代の1368年に中国王朝は元から明に替わりました。
「いざロッパくん、もう明だよ」です。朱元璋が元朝を倒して洪武帝となり漢民族国家の明を建国したのがいざロッパくん(1368年)です。
韃靼疾風録上巻では、「元 がほろび、 明 が興った。明は、海外に対して開放的だった元とちがい、海禁を国是 とした。 片板モ海ニ入ルヲ許サズ──海外へ出るな、という明の鎖国はきびしかった。しかし沖から 倭寇 がくることばかりはふせぐことができなかった」
と書かれています。
司馬遼太郎氏の「長安から北京へ」の中では、「明というのは中国歴世のなかでも、不景気な王朝であった。第三代永楽帝(1360~1425)の一時期はべつとして、末期になるに従って外患(北慮南倭)が多く、内部的には官僚制が腐敗しきり、とくに明朝最後の万歴帝のころは豊臣秀吉の朝鮮侵入等で財政が逼迫した」とありました。
韃靼疾風録の主人公桂庄助は、藩主松浦隆信の命を受け、漂流し平戸沖に辿り着いた韃靼公女(実際は韃靼_タタール族ではなく、女真_ジュルチン族)を彼女の故国オランカイ(満州)まで届け、韃靼という国との交易の可能性をみきわめることになります。
「松浦家は大名というより貿易商人のようになり、さらにオランダ船やイギリス船もきて、それぞれ平戸に商館をつくった。平戸は、賑わいににぎわった」
庄助と公女アビアは、政情不安の上、反日感情の高い朝鮮半島を避けながら韃靼の地にたどりつきます。 この頃の朝鮮は、ヌルハチが明の韃靼への防壁ともいうべき城を陥落させていたことから、女真族に恭順の意を表明をしながら、といって儒教国家のしがらみから宗主とあがめている明との関係も完全に絶つわけにもいかず、双方に面従腹背という微妙な立場でした。
時代は、女真人ヌルハチ・愛新覚羅によって後金が建国される、日本では家康が亡くなる1616年頃以降の物語です。
後金は、1636年にホンタイジによって清と名を変え、その時点で亡くなっていたヌルハチを初代皇帝としました。 ヌルハチの後継者として二代目皇帝となったホンタイジはヌルハチの第8子でした。
庄助は公女アビアと韃靼の地に流れ着いたときは、ヌルハチの絶頂期から後継者ホンタイジへの時代でした。 女真族ホンタイジがより大きなタタール族その他の部族を吸収合併して1つの大きな韃靼としての勢力基盤を構築していた時代で、中国が明王朝から清王朝へ変わろうとする迷のときでした。
「豊臣家の興亡があり、倭寇時代は 終熄 した。秀吉はみずから大倭寇になったかのごとくに貿易の利を独占しようとし、かつ朝鮮侵略までおこなったが、やがて病死し、家もほろび、徳川幕府が樹立されて、江戸という平戸からはるかに遠い東方の農業地帯に政都がおかれた。歴史がかわった」
大陸に渡った庄助には驚きだったでしょうが、倭寇が活躍し、その基盤でもあった松浦家の活動も大きな制限を受けることになっていくのです。 博多や堺のまちが栄えた海洋交易国家としての面影は遠くなってしまい、やがて3代将軍徳川家光が1639年に鎖国政策に踏みきります。
アビアと結婚して子もなした庄助も加わっている清軍の大進撃(北京入城、南京占領等)は下巻になります。