私の中では、「タイタニック」と「ローマの休日」と並ぶラブロマンス三大作品の1つがこの「カサブランカ」(1942)です。
主題歌の「アズ・タイム・ゴーズ・バイ("As Time Goes By")」がいいですね。「Here's looking at you, kid.(君の瞳に乾杯)」等の名セリフもいっぱい詰まっています。
私のお気に入りはリックを訪ねてきた女性に、リックがつれなく返事をする場面のセリフです。
(女性)「昨日なにしてたの?」(リック)「そんな昔のことは覚えていない」
(女性)「今夜会える?」(リック)「そんな先のことは分からない」
一度はこのセリフを使って決めてみたいと思ったこともありましたが、使う機会がないまま還暦を過ぎてしまいました。
老人ホームに入ったら使えるかもしれませんね。
(女性看護師)「昨日なにしてたの?」(私)「そんな昔のことは覚えていない」
(女性看護師)「今夜なにするの?」(私)「そんな先のことは分からない」
今、元毎日新聞ウィーン支局長だった塚本哲也氏の「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女(下巻)」を読んでいますが、ナチスに追われる抵抗運動の指導者ヴィクター・ラズロ(ポール・ヘンリード)とその妻、イルザ・ルンド(イングリット・バーグマン)には実在のモデルがいたそうです。
ラズロのモデルはチェコ国籍のリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギー伯爵(1894年11月16日 - 1972年7月27日)です。写真を見る限りハンサムですね。
クーデンホーフ家はオーストリア・ハンガリー帝国の貴族でカレルギー家はポーランド貴族の家系です。 彼の父はハイリンヒ・クーデンホーフ・カレルギー伯爵で駐日オーストリア大使として明治時代の東京に着任していました。母はゲランの香水「ミツコ」の命名で有名な青山光子(ミツコ・クーデンホーフ)です。
彼女は夫の帰国の際にオーストリアに渡りウィーン社交界の花形として脚光を浴びました。ボヘミヤ領地の城で伯爵夫人として暮らした彼女も文化・民族の壁を越えていたという意味で息子リヒャルトの思想に影響を及ぼしたのかもしれません。ちなみにリヒャルトは東京生まれで栄次郎という名(ミドルネーム)を持っています。
リヒャルトは、1923年に「汎ヨーロッパ主義」を著しセンセーションを起こします。その翌年に今のEUの原型となる汎ヨーロッパ会議を設立しました。
しかし、民族主義のドイツのヒトラーにとって「汎ヨーロッパ主義」は邪魔であり、1938年のオーストリア併合後彼はドイツにとっての危険人物としてナチスからマークされました。
チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴ、イタリアを経てスイスへ逃避行します。さらにフランスに渡ってパリを本拠に活動していましたが、1940年フランスがドイツの手に落ちるとスイス、ポルトガルを経てアメリカに逃げのびました。
イルザのモデルはウィーンの美人舞台女優イダ・ローランです。
リヒャルトとイダ夫妻は実際にオーストリーから逃れる際に、モロッコ経由亡命するという予定もあり、そこから「カサブランカ」のアイディアが生まれたとの説もあります。
当時のアメリカの大統領ルーズヴェルトはリヒャルトへのヴィザの支給を渋っていたようです。単に「汎ヨーロッパ主義」の考えに反対だったのか、リヒャルトに敵国である日本人の血が半分流れていたことを懸念していたのか定かでありません。
夫妻はリスボンでの渡米工作に行き詰って、闇の渡米パスポートとヴィザを入手できる北アフリカのカサブランカに渡ることを決意した矢先、アメリカの大学から教授として招聘するとの電報が届いたのです。(カサブランカというかモロッコはフランス領になる前、ポルトガル領でカサブランカの街つくりはポルトガル人によって行われたためポルトガル語の地名になっています)
クーデンホーフ・カレルギー夫妻が渡米すると、彼らのスリルに満ちた反ヒトラーの逃避行がニューヨークタイムスの報道によって大評判になり汎ヨーロッパ主義の支持者も増え熱烈な歓迎を受けました。それにあやかってハリウッドの映画界も反ナチスの命がけの脱出逃避行と愛妻イダ・ローランのロマンスをもとに映画「カサブランカ」を作りあげたのです。
ただ、映画を観る限りは、その逃避行はあくまで背景説明に使われ、アメリカを象徴するハンフリー・ボガードが三角関係に悩むイルザから黙って身を引いたって感じで、ラズロはあくまで脇役でしたね。 うがった見方をすると映画の題名カサブランカもモロッコの最大の都市名ではあるんですが、アメリカの大統領の官邸である「ホワイトハウス」を暗に象徴しているように思えます。