新宿のシネマカリテで観ました。
観終わったときは、消化不良を感じた映画でしたが、その後サラエヴォ事件の背景などを学んだ後この映画の構成の妙が理解できました。含蓄のある映画でした。
第1次世界大戦の引き金と言われるサラエヴォ事件の簡単な説明から入りましょう。
サラエヴォ事件とは、 1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、ボスニア州都サラエヴォ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴヴィナ領)の病院を訪問する途中で、ボスニア出身のボスニア系セルビア人(ボスニア語版)の19歳の青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件です。
この事件がきっかけとなって、事件から1ヶ月後、オーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦布告し、 第一次世界大戦が勃発しました。
トルコの支配権が失われたバルカン半島内での領有権を巡って南部のブルガリア対セルヴィアが対立し、ボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合しバルカン半島進出に意欲満々のオーストリアがブルガリを擁護し、それに対抗してロシアがセルヴィアを支持しました。 このヨーロッパの火薬庫バルカン半島を巡っての対立構図が、オーストリア=ハンガリー、ドイツ、イタリアの三国同盟とロシア、イギリス、フランスの三国協商との戦いと拡大されたのが第一次世界大戦です。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、現在もガヴリロ・プリンツィプをテロリストとみなす意見と、英雄とみなす意見に分かれているそうです。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナは1878年のベルリン会議でオーストリアが占領し、その後1908年には正式にオーストリア領に併合されていました。多くのボスニア住民、特にボスニアのセルビア人住民はこれに反発し、セルビアや他の南スラヴ諸国への統合を望んでいたのです。
オーストリア当局はセルヴィアにとって重要な祝日である聖ヴィトゥスの日(Vidovdan)にあたる6月28日をフェルディナント大公のサラエヴォ訪問の当日に設定しました。この日はまた、1389年にセルビアがオスマン帝国に敗北を喫したコソボの戦いの行われた日でもあったため、皇太子夫妻の訪問はセルビア人の神経を逆撫でする結果ともなったようです。
映画は、サラエヴォにある老舗ホテル「ホテル・ヨーロッパ」を舞台に、サラエヴォ事件の100周年記念式典の準備にいそしむ支配人、従業員、VIP、警備員、ジャーナリスト等の群像劇でした。
経営難に陥っているためホテルの支配人は銀行との交渉に余念がなく、給料の支払いが滞っているため従業員はストを予定し、仕事熱心な美しい受付主任はリネン室で働く自分の母親がストの首謀者に祭り上げられたことで頭を痛め、記念式典を前にストを心配した支配人はヤクザを使ってスト破りを画策し、一方で、女性ジャーナリストは100年前の暗殺者と同姓同名の青年と論争をはじめ、次第に混沌を深めるホテルで一発の銃声が鳴り響くといった筋書きでした。
その銃声は、100年前の混沌と対立を深めるバルカン半島の火薬庫が爆発しヨーロッパ全域を戦争に巻き込んだあのサラエヴォの銃声を彷彿させるものでした。
テロが頻発し民族同士の争いが絶えない、現代の世界の縮図は、サラエヴォ事件からなんの進展も学習もなかったのだということを、経営難に陥ったヨーロッパを老舗ヨーロッパホテルに見立てて強烈な皮肉を交えながら、観客に突き付けているような含蓄のある映画でした。