何故スペイン人フランシスコ・ザビエルが、ポルトガルから日本にやってきたのでしょうか?
その単純な疑問に目から鱗が落ちるような明快な答えがこの「街道をゆく 22 南蛮のみち 1」にありました。
司馬遼太郎氏は、ザヴィエルが学んだパリのカルチェ・ラタン(大学区)の一角にあった聖バルブ学院をこの旅の出発点に選んでいました。この聖バルブ学院はポルトガル王の補助で建ち、運営されていました。 このときすでにポルトガルとザヴィエルは赤い糸で結ばれていたのかもしれませんね。
ザヴィエル(ハビエル)が19歳で入学したときは1525年で、日本では毛利元就の初動期であり、戦国期がすでにはじまっていました。彼は、イエズス会をこの地パリで立ち上げる1534年まで11年間ここで学んだり助教として学生の指導にあたりました。
ザヴィエルのお父さんはバスクのナバラ王国の宰相でした。ザヴィエルが6歳の1512年にフランスとスペインの間で戦争が起きました。ナバラ王国はフランスに加担しました。このためナバラ王国はスペインの攻撃を受け宰相だった父は王と共にフランスに亡命する途中で亡くなってしまったのです。
彼の母国であったナバラ王国はスペインに滅ぼされてスペイン領になりましたが、彼の心情としてはスペイン人と名乗るはずもありませんね。
1534年に7人のメンバーがパリ、モンマルトルに集いイエズス会を創設しました。そのときの中心メンバーであったのが、イグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルだったのです。2人とも新興国スペインより古い歴史をもつバスクの地の出身でした。この創設メンバーの中にはポルトガル人もいました。
ポルトガル国王がポルトガルが植民地としてもっていたインドへの布教をイエズス会に頼んだことがザヴィエルを日本へと導くことになるのです。
非常に大雑把な言い方になりますが、ポルトガルの支援を受けた「イエズス会」とスペインの支援を受けた「フランシスコ会」の間には凄惨な縄張り争いがあってそれは日本も例外ではなかったそうです。
スペインが征服しようとする国に宣教師を送り込み住民の一部が改宗するや否や軍隊を送り込んで改宗者と合同してその国を征服したことは有名ですよね。「イエズス会」は、「フランシスコ会」等と違って現地人の奴隷化等は認めない方針で、その意味では、イエズス会は、原住民を異教徒として奴隷にしたり殺戮をも厭わず植民地化の先兵となった「フランシスコ会」とは一線を画していました。
彼はポルトガル人ではもちろんありませんが、祖国(バスクのナバラ王国、ザヴィエルの居住したザヴィエル城は今でもあるようです。)を失ったフランシスコ会ではないイエズス会のフランシスコ・ザヴィエルは「神の国」へ仕える身として、艱難辛苦の海外布教に自らを駆り立てたのではないでしょうか。
ザヴィエルが日本に来ることがなければ、イエズス会が日本に根付くこともなかったでしょうし、こんにち、上智大学のキャンパスのなかの多くの青春もその場所に存在しないということになることになります。まことに不思議な運命のめぐりあわせを感じずにはいられません。
司馬氏はバスクというヨーロッパでも特異な文化を持つ民族についてその歴史や風土、言語や民族性などをこの本でほとばしるように筆を走らせています。
フランコ将軍を支援していたナチス・ドイツが空爆したバスク地方の小都市ゲルニカとそれを作品にしたピカソのエピソードも盛り込まれていましたし、ヘミングウエイの「誰がために鐘は鳴る」に描かれたのもその1936年から1939年の動乱でした。
結局、1939年、フランコ派が首都マドリードを占領し、以後36年間独裁政治を続けます。
バスク人は、一部の過激集団が、フランコの統治下で、ゲリラ組織「バスクの祖国と自由(ETA)」で完全独立を求めテロ行為を打って出た経緯があります。フランコ治下のスペインの首相カレロ・ブランコを1973年に暗殺、その後79、80年にはバカンスの季節の観光地に爆弾を仕掛けたりしました。バスク人といえばベレー帽も有名ですね。
司馬氏の紀行では「陽はまた昇る」の主人公がフランスのバイヨンヌからピレネー山脈を越えてスペインを目指す道も覚束なげにたどっていました。
スペインとフランスの国境ともいえるピレネー山脈を挟んでフランス側バスク、スペイン側バスクと国境をまたいで広がるバスク民族の土地を訪ねその見聞と良質の背景知識を私たちの前に大きく広げて伝えてくれています。いつもながら蘊蓄満載で、興味深い内容でした。
イベリア半島への旅は、日本の歴史を大きく変えることになった「南蛮」とは何かを感じることにも通じますが、前半パリからバスク地方へと渡り、この地方出身で日本に多大な影響を残したフランシスコ・ザヴィエルの生い立ちを探りつつ、広域国家の中の少数派としてのバスク人についても考えさせられます。
「今後の世界というのは、各国家における多様な少数者たちの不満が活性する時代になるのではないか。」と著者は予言していましたが、現状をみると「司馬遼太郎」の洞察力の確かさに感心させられます。