北村薫のデビュー作であり、以後{夜の蝉」「秋の花」「六の宮の姫君」と続く女子大生と落語家春桜亭円紫の人気シリーズの第1作でもあります。
私は、比較的円紫さんの謎解き場面の少ない、「六の宮の姫君」から、このシリーズ16年ぶりのなんと主人公の女子大生がアラフォー接近中の子持ちキャリアウーマンに変身した「太宰治の辞書」を読んで、振り出しに戻っての「空飛ぶ馬」でした。 このシリーズ3作目の読書となります。
最初はこの北村薫は性別不明の覆面作家としてデビューしたそうで、主人公の女子大生と作者を同一視して、うら若き女性が書いているものと思った読者が多かったようです。作者を女子大生と信じ込んでいた愛読者の中には、北村薫が中年のおっさんだと知ってショックのあまり寝込んだ人もいたそうですよ。
女子大生の私小説スタイルですから騙されても無理はありません。 まことに人物造形が繊細で、女子大生通しのガールズ・トークの場面などいきいきしてまして、このような表現を中年のおっさんができるわけはないと思ってしまいますよ。
ちょっと書き抜いてみます。
・大学生になってからは、もう起こしてはくれない母上のいかにも<女>の先輩といった嫌味を朦朧とした頭で聞きながら・・・・(「織部の霊」)
・実のところ私には自分より上の人の年齢はよくわからない。体験していないのだから、それで当たり前かと思う。三十、四十などというところが特に難しい。すべて一括して、おじさんに見えてしまう。(「織部の霊」)
・何だか私、コーヒーってバロックみたいな、それから、紅茶ってロココみたいな、そんな感じがするんです。(「砂糖合戦」)
・お茶を一杯飲むと2階に上がり、布団を敷いた。タータンチェックのスカートを脱いでたたむと下だけパジャマに着替える。ちょっと人には見せられない格好である。(「赤頭巾」)
・手を動かしながら、いつの間にか上半身を自然に揺らしていた。走るときほどはっきりとではないが、揺れと共に子供でない体を感じる。 お風呂に入って、自分の体がいとしくない女はいないのではないか。(「空飛ぶ馬」)
最後の表現なんかは、川上弘美の俳句 「はるうれひ乳房はすこしお湯に浮く」を思い出してしまいました。
この「空飛ぶ馬」は短編集です。「織部の霊」、「砂糖合戦」、「胡桃の中の鳥」、「赤頭巾」、「空飛ぶ馬」が納められています。
個人的には、「赤頭巾」と「空飛ぶ馬」も」好きな作品でしたが、なにより一押しは「胡桃の中の鳥」です。ガールズトークが楽しい友達の正ちゃんと夏休みの東北旅行記になっています。このシリーズでの友達の正子(しょうこ)こと正(しょう)ちゃんの初登場です。 正子ちゃんの出てくる短編は大体女学生の旅物語となっています。
それで正子ちゃんも文学に詳しくて、読んだ本の感想というか意見交換をするシーンも結構参考になります。
この「胡桃の中の鳥」では、実家が御釜の近くという女子大友達のおっとりとした江美ちゃんも登場します。三人の性格のコントラストが秀逸です。落語家探偵円紫さんを含め、登場人物の造形の深さにこの作品への愛着捨てがたしとなった読者は多いことと察します。
「赤頭巾」の中で、「アンナ・カレニーナ」を1週間で読み終えた、女子大生・私の読後感想も印象に残りました。
・質量共に巨大な作品を読むと、愛すべき珠玉篇に触れた時とはまた違った意味で、小説の中の小説という言葉が自然に浮かぶ。 そして生きていてよかったと心底思うのである。
キーラ・ナイトレイ主演の映画は観ましたが、トルストイ作の「アンナ・カレニーナ」という大作を読むか、読まないか、ちょっと逡巡しています。 先に「夜の蝉」を読むことになるんでしょうね。 私は、この「空飛ぶ馬」を読んだだけで十分、生きていてよかったと思えましたから。