幕末の長州藩といえば攘夷の総本山であり、革命の火薬庫でした。その長州藩に会って歴史に名を遺した人物は、吉田松陰と高杉晋作でしょう。この二人を主人公とした歴史小説としては同じ著者の「世に棲む日々1~4巻」が有名です。その中には、後の長州革命軍の総指揮を執る大村益次郎(村田蔵六)のことにはほとんど触れられません。
この「花神」では、長州を中心とする維新史を村田蔵六という「技術屋」に絞って描いています。幕長戦争で、長州軍の強さは天下にとどろきわたりました。高杉晋作は小倉城を陥落させ、蔵六は石州浜田城を陥しました。
村田蔵六は長州の百姓医の子でした。大阪へ出て緒方洪庵塾に学び、洪庵から目をかけられ塾頭を務めます。 医術よりも蘭学の実力を請われ宇和島藩へ、さらにその技術をオランダ兵書の翻訳に使う需要が高まる中、江戸へ移ります。 そして西洋兵学研究家の第一人者としての蔵六を見出したのが桂小五郎だったのです。
蔵六が歴史の表舞台に現れるのは彼が42歳のときです。没年まで3年しかありませんでした。しかし、この3年余りに驚異的な仕事を成し遂げました。高杉晋作と共に長州側の指揮官として幕府の長州征伐を迎え撃ち、晋作が亡くなった後は、討幕司令官として圧倒的な成功を収めます。
高杉の後を受け継いだ格好ですが、蔵六は晋作より、また松陰や小五郎より先に生まれ、彼らより後に亡くなっているのですね。
吉田松陰1830~1859、高杉晋作1839~1867、大村益次郎1824~1869、桂小五郎1833~1877、蔵六に「火吹き達磨」のあだ名をつけたのが高杉晋作で、村田蔵六が江戸在住のまま長州藩士になったのが1860年、高杉晋作21歳、村田蔵六36歳だと思われます。 この二人はほとんどつきあいがなかったのですが、高杉晋作が病没する間際、次の長州軍の司令は村田蔵六に仰げという遺言を残したというエピソードがこの小説で紹介されていました。
それにしても村田蔵六という世間知らずの技術屋の才能を見出し、歴史の表舞台の主演を演ずる役者に仕立て上げた功労者「桂小五郎」を描くときの司馬遼太郎氏の筆さばきには魅力を感じます。
脈絡はありませんが、小説文中から司馬遼太郎氏の言葉を集めてみました。
「 桂小五郎、木戸孝允という人は、生え抜きの剣客であった。が、かれはその剣を生涯殺人に使ったことがない。というより、かれが江戸の斉藤弥九郎道場の塾頭までつとめたほどの技達者だったが、かれが剣を学んで知った最大の真実は、剣をもって襲いかかってくる者に対しては、逃げるしか方法がないということであった。
桂はこののち劇的な危機に何度も遭うが、そのつどその用心深さとその痛烈なまでの機敏さが、かれ自身を救った。このため、桂はこのあとの長州の政治的窮迫期に幕吏にしつこく探索されながらついに明治まで生ききった。
桂というのは革命家でありながら、長州人に多い思想への陶酔体質はもっておらず、ごく常識的な現実認識家である面が強い。
その桂を革命家に仕上げているのは強い正義の念とその持続性であるらしく、この念は明治後も続き、多くの思想革命家たちの猟官運動を目の当たりにし、むしろ憂鬱症にとりつかれ孤独を愛するようになり、明治十年の西郷の乱を憂えつつ病死した。
蔵六を歴史の舞台に押し出してゆく縁を作為的につくりあげて行ったのは桂小五郎であるということを述べた。 桂は村田蔵六のなかから天才を洞察し、天才が動きやすいようにその名声を作為的につくったといえるだろう。 大村益次郎とは、最初は全くつくられた人物といっていい。
桂小五郎は、村田蔵六の前に、伊藤俊輔(後の博文)の才分を見出して百姓の身分から、桂の妹婿の栗原の籍に入れてやり、栗原切腹の後は自分の籍に入れて取り立てている。
桂小五郎の維新における最大の業績は、長州藩の才能群を機能化させたことにあるのではないだろうか。
村田蔵六は、いずれにせよ、桂のひきで、長州藩の国防大臣となった。」
「花神(中)」の後半で、蔵六が没する前の3年の活躍の1年目の第2次幕長戦争までが描かれます。 戦いの舞台を京都に移し、討幕軍司令官としてさらに江戸まで転戦する活躍は下巻に描かれています。 早く続きが読みたいです。 NHK大河の「花燃ゆ」の展開に追いつきました。
「世に棲む日々」の4巻も面白く読みましたが、「花神」3巻と併せて読むことをお勧めします。維新史の流れをより広い角度からとらえることができます。