日本の最初の首相となった伊藤博文は、周防国束荷村(つかりむら)の百姓の子・利助として生を受けました。
父がなんと武士の養子になったため、利助も下級武士となり伊藤俊輔(シュンスケ)と改名し、青春の日をとびまわります。
彼の青春の日々は、日本という国も青春の日々でした。シュンスケが百姓から武士に転じるように、時代も江戸時代から明治維新を経て、明治へと大転換していきます。
そうした中、松下村塾の門下生として、吉田松陰を師とし、桂小五郎、高杉晋作、久坂玄瑞を兄貴分とし、井上聞多(馨)、山形有朋を朋輩として、幕末の尊王攘夷・討幕運動に参加し、動乱の時代を夢中で抜けていくシュンスケの姿が、いきいきと描かれていました。
その頃から、司馬遼太郎氏が言うところの「周旋家」としての才能を発揮し、また井上聞多とのロンドン留学も一緒というこれまた司馬遼太郎氏の表現ですが、御神酒徳利ぶりが懐かしく描かれていました。
司馬遼太郎氏の「世に棲む日々」の幕末を駆け抜けた長州藩の若者の表現力の巧みさと洞察力の深さを感じさせてくれる触媒のような役割をこの「シュンスケ」はしてくれました。
それは「播磨灘物語」を読んだ時も感じました。NHK大河ドラマの「軍師官兵衛」放映時に黒田官兵衛に関する小説を5~6冊読みましたが、把になってかかっても、「播磨灘物語」一冊に、その時代背景、人物描写の巧みさと洞察の深さにおいて遠く及ばないという印象を強く持ちました。
維新後のシュンスケは、薩長の藩閥政権の内で力を伸ばし、大日本帝国憲法の起草の中心となり、初代、第5代、第7代、第10代の内閣総理大臣、それに初代韓国総統を「伊藤博文」として歴任しました。
1909年にハルピンで朝鮮民族主義活動家の安重根に暗殺されます。 享年68歳。